現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

指差しが魔法のような力を発揮する(2)

                                     指差しが魔法のような力を発揮する(2)
 
1. はじめに
 前回は,「指差しが魔法のような力を発揮する」とは,どういうことか。三十字以内で書け」という設問が論理的にナンセンスであることを指摘しました。「魔法のような力」とは何か,作者自身が何も語っていないのですから,そもそも実体の欠片もない問題なのです。


    前回,言い落したのですが,「魔法のような」という比喩を使っただけで何かを言ったかのように錯覚する時点で,論理の筋道から脱輪することになります。


 どうも,国語・日本語教育では,例えば,(1)を見ただけで,受験生は書き手の意図が理解できるものと早合点しているようです。

 

(1) 良心とは影のようなものである。
(2) どこへ行こうと影が片時も離れることがないように,良心はあなたと共にあるので

   ある

 

 しかし,英語の世界では,書き手が(2)のような情報を後に続けることが期待されています。(1)で,書き手は良心:x=影:x というアナロジーが成り立つと述べていますが,「良心」と「影」の共通項であるxが何か自分の言葉で具体的に述べていないので,この時点では,実際には,「何も述べていないのに等しい」のです。


 (2)があることによって初めて,x=‘to be together with you’であることが分かるのです。また,この時になってようやく,「日が落ちると影は消える」という都合の悪い部分が捨象されていることにも気づくのです。つまり,比喩というのは無条件に成り立つわけではないので,比較している2者のどの部分にoverlapする共通項を見ているのか,書き手自身の解説が必要不可欠になるのです(また,これなしには,書き手の主張が正しいかどうか誰にも判断できないのです)。


 「平成30年度試行調査・国語・第1問」の論理的なおかしさ(or論理の崩壊)は,出題の形式を次のように変えると,なお一層際立つものになります。

 

(3) a. ことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする状況

         を考えてみよう。この時には,指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。つま

         り,(A)はずだ。なんと言っても,指差しはコミュニケーションの基本なのだ。
      b. 【文章I】の空所(A)を埋めるのにふさわしい内容を前後の文脈から判断して,三

         十字以内で書け(読点を含む)。 

 

    ここでは,作者が「指差しが魔法のような力を発揮する」とは何かについて,自身の言葉で説明していると仮定します。これを前提に,前後の文脈からだけで,(A)に入れるのにふさわしい内容を論理的に復元できるかどうか,先に進む前に考えてみてください。

 

2. 「英語の世界」では当たり前の「具体例」と「対比」が欠如している
 英語の世界から言えば,空所(A)は一般論を表すので,直後には,(典型的な)具体例が続くことが予期されます。一般論から具体例へ(あるいは,その逆に,具体例から一般論へ)と行き来があるおかげで,仮説が現実世界でどのように適応が可能なのか理解する手助けとなります。しかし,実際には,(3a)には,一般論という骨格に肉付けする具体例が欠如しています。


 英語の世界との比較で言えば,対比が成立していないという問題点も指摘できます。(3a)の最初の2文-つまり,次に引用する(4)-を基に,これと対比関係を成す内容を考えると(5a)のようになる「はず」ですが,実際には,(5b)になっています。

 

(4) ことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする状況を

     考えてみよう。この時には,指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。
(5) a. ことばがいくらかでも通じる国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする状

          況を考えてみよう。この時には,指差しは魔法のような力を発揮しない
      b. ことばを用いずに,指差しも用いないで,頭や目の向きも用いないで,相手に何  

          かを指示したり,相手の注意なにかに向けさせたりする状況を考えてみよう。

 

 対比というのは,補色の関係に似ているところがあります。大葉や笹の葉のような「緑」が添えられると,マグロの赤身の「赤」が際立つように,「指差し」の持つと考えらえる「魔法のような力」が際立つように添えられるのが,対比表現なのです。しかし,不幸なことに,【文章I】は,対比の構図が正しく描かれていません。


 結局のところ,「論理的な構成と展開」が正しく満たされていないので,(3a)および(5b)から,空所(A)に入るべき表現を論理的に推定することは不可能なのです。


 換言すれば,設問として成立していないのです。


 今日は,予定を切り上げて,ここで筆を置くことにします。


 前回,作者の意図を「忖度」してuniversalを「キーワード」に解答例を書いてみましたが,次回は,言語を獲得した後の段階では,「魔法のような力」をイメージできないことについて触れてみたいと思います。つまり,「指差し」に特有な特質を,「ことばのまったく通じない」状況で論じるのは的外れである(では,何を軸に論じればよかったのか?)について触れてみたいと思います。

指差しが魔法のような力を発揮する(1)


                            指差しが魔法のような力を発揮する(1)
 
1. はじめに
    坂道を転がる。日本の地盤沈下は,まさに,そうした急激な変化において進行を始めているように肌で感じます。常に何らかの激動の中で人々は暮らしてきたと言えるのかもしれませんが,こと,これからの人々のことに思いをはせる時,「考える力」を自らの内に培うことの重要さ,そして,そのために具体的に何を実践すべきなのかを日々に反芻しています。


 声なき声の一つをここに記しておきたいと思います。

 

2. 「論理」が何か大学入試センターは理解しているのだろうか?
    今日は,「指差しが魔法のような力を発揮する」を取り上げます。


    (1)は,大学入試センターが2018年に実施した「平成30年度試行調査・国語・第1問」の文章I・第3段落から引用したものです(引用では,横書きに変えています)。また,(2)は(1)の下線部(原文では「傍線部」)についての設問です。

 

(1) ことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする状況を

  考えてみよう。この時には,A指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。なんと言

     っても,指差しはコミュニケーションの基本なのだ。
(2)【文章I】の傍線部A「指差しが魔法のような力を発揮する」とは,どういうことか。

      三十字以内で書け(句読点を含む)。       

                                                                              (「平成30年度試行調査・国語(問題)」)

 

    国語の記述試験については,「採点の信頼性・公平性」と「自己採点の困難性」が議論の中心になっていますが,第1問を見る限りでは,むしろ,問題の本質は,「出題(者)に対する信頼性」,最終的には,「欠落した論理性」にあると考えています。


 まず,最初に断っておかなければならないのは,本稿の意図が,(1)の文章の作者を批判することにはないということです。作者は,大学受験生の理解力と表現力を適切に診断するという目的のもとに,「論理的な構成と展開」を念頭に置いて文章を書いているわけではないからです。


 「論理」という視点から見た時に,(1)において真っ先に問題になるのは,「指差しが魔法のような力を発揮する」とはどのようなことを意味するのかについて,作者自身は自分の言葉で説明していないということです。つまり,「「指差しが魔法のような力を発揮する」とはXである」と作者自身は述べていないのです。論理においては「Xである」,つまり,「Xであるが正しい」と主張している部分が,真か偽かの判断の対象になります。


 しかし,(1)においては,作者はXが何かについて主張していないので,つまり,作者は正解が何か自分の言葉で説明していないので,Xの部分にどのような答えを入れたとしても,どれが「正解」でどれが「不正解」か,は判断できないのです。


    大学入試センターは解答例として(3)を提示していますが,これは,「大学入試センターの考える正解」に過ぎないのです。

 

(3) a. ことばを用いなくても意思が伝達できること。
     b. 指さしによって相手に頼んだり尋ねたりできること。
     c. ことばを用いなくても相手に注意を向けさせることができること。

 

     つまりは,(2)の設問は,出題者の考える「正解」を受験生に当てさせる「推理ゲーム」になっているのです。受験生が自分の答案が何点で採点されるのか不安に思うのは,当然の帰結で,「採点者の質」などは周辺的な問題に過ぎないのです。

 

    視点を英語学習に移動すると,「平成30年度試行調査・国語・第1問」は,なぜ日本人の英語力が伸び悩んでいるのかを解き明かす一つの重要な鍵を与えてくれます。


    (4)は,日本科学哲学会第52回年次大会に応募した時の発表要旨から引用したものです。

 

(4) 英語というのは,相手を説得する言語であることはよく知られている。英語の学習 

    で見落とされがちなのは,効果的に「説得」するためには,相手が理解に困るような

    言い方をしない,ということである。相手があれこれ考えなくても,なるほどそうだ

    と思えるぐらいに,明快に論じることである。
(明日誠一. 2019「女性はマイノリティと考えられる-「考える力」をつけるために(不)必要なものを事例研究から考察する-」)

 

 仮に,(1)が英語で書かれた文章だと考えてみましょう。この場合,「指差しが魔法のような力を発揮する」という表現に出会って一瞬,戸惑う読み手も,それが具体的にどのようなことを意味するのか,作者自身による説明が後に続くと期待することでしょう。


    いわゆる大学入試の二次試験であれば,「指差しが魔法のような力を発揮する」とは何かと尋ねられた時,後に続く記述の中から該当する部分を抜き出して,日本語でまとめることが要求されていると受験生なら理解するでしょう。


 日本で育った私たちにとって「論理的に考える」力は,母語である日本語によって基礎づけられますが,英語を使って議論することが適切に行えない重大要因の一つとして,母語の教育において,真偽の対象となる「論理的な意味」とは何かという基礎的なことを学ぶ機会が欠落していることを指摘できるでしょう。


 「考えるだに恐ろしい」という表現がありますが,実際に出された問題,しかも,それがreadingとは何かに関わる根源的な「理念」を体現した例として出された問題,であることを考慮すると,大変に言いにくいことなのですが,語弊を恐れながらも,なお,真実に目を向けながら言えば,大学入試センターは「論理」とは何かを理解していないのではないかという恐怖の可能性(あるいは「現実」)に突き当たります。

 

3. Pointing is universal.
 とは言え,「読む」というのは,畢竟,「つじつまが合うように読む」ということなので,もろもろの困難を乗り越えて,(2)の設問の答えを書いてみるという「蛮勇の挙」に挑んでみましょうか。


 私なら,

 (5)のように書きます。

 

(5) a. 指差しは,国境や文化の壁を超えて意思の疎通を可能にすること。(30字)
  b. 指差しは,世界中どこでも普遍的に意思の疎通を可能にすること。(30字)

 

 では,なぜ(5a)や(5b)のような解答を書くのでしょうか?


 まず,「発揮する」にとってobligatoryな要素である「この時には」まで下線に含めて考えると,作者は下線部で「指差しのdisposition」について触れていると考えることができます。


 英語で考えると,dispositionは助動詞のwillを使って表されます。

 

(6) Oil will float on water.

 (6)の意味は,(7)のようなパラフレーズで示すことができます。

 

(7) If oil is put into water, oil will float on water.

 

 つまり,(6)は「水の中に入れるという条件下では,油は「水に浮く」という性質を発揮する」という意味を表します。


 この点を踏まえて,下線部Aを「Xという条件下では,指差しはYという性質を発揮する」と変項を使って言い換えてみます。(1)からXとYに入る表現を抜き出して埋めると,

 

(8) 「「Xことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする」条件下では,指差しは「Y魔法のような力」という性質を発揮する」

 

となります。
 もう一歩踏み込んで,「ことばの通じない」はverbal communication doesn’t work,「相手に何かを頼んだり尋ねたりする」をmake yourself understoodと言い換えてみると,

 

(9) 「「X verbal communicationが成立しない国で,意思の疎通をはかる」条件下では,指差しは「Y魔法のような力」という性質を発揮する」

 

とまとめ直すことができます。


 ポイントは,verbal communicationというキーワードを抽出することができるかどうかです。ここに気がつくことさえできれば,

 

(10) There are two types of communication: verbal and non-verbal.

 

という知識が「活性化」されるはずです。


 non-verbal communicationと言えば,eye contact,顔や声の「表情」,腕組みや貧乏ゆすりなどの「姿勢」,さらには,服装や化粧-例えば,「ポロシャツ姿で法廷に姿を現す弁護士」とか,「葬儀に派手なメイクで現れる未亡人」を想像してみよう-が思い浮かぶことでしょう。特に,「目は口ほどにものを言う」というように,眼差しは,自分の考えや感情を,メッセージとして相手に効果的に伝える力を持つことが思い出されるところです。


 ここまでたどり着けば,今回の文章では,「指差し」もまたnon-verbal communicationとなることを述べていると推察がつくでしょう。


 すると,作者は,数あるnon-verbal communicationを差し置いて,「指差し」に特有に見られるある性質を指して「魔法のような力」と述べていることにも気がつきます。


 ここで,いったん視点を変えてverbal communicationの制約を考えてみましょう。


 言語というのは,「バベルの塔の説話」を思い出すまでもなく,同じ言葉を話す人々同士を強く結びつける一方で,同じ言葉を話さない人々を排除するという二つの異なる力を同時に発揮します。例えば,津軽弁を話す人が,新橋駅で,津軽弁を話す人を見かけたら,それが初対面の人であっても,親近感が湧き,思わず話しかけてしまうかもしれません。また,飲み会で,周りが大阪弁の人ばかりで,自分一人が違う方言を話すことに気がついた瞬間,その人は,顔では笑っていても,内心では,居場所を失ったような心持ちになるかもしれません。


 言語には,ingroup membersの間で友好的な関係を強化する一方で,outgroup membersに対しては排他的な関係を生じさせる(という潜在的な)力があります。つまり,人と人の間に壁や垣根を作る力があるのです。


 ingroupかどうかの「境界」を決定するのは,通例,政治や文化と考えることができます。政治に関しては「国境」という言葉を使えば,verbal communicationは,「国境や文化の壁」という「有界」の中でのみ有効に機能すると言えます。


 他のnon-verbal communicationとも違って,「指差し」には,この有界性を打ち破る力があるとすれば,それは,確かにある意味「魔法のような力」と考えることができます。


 「国境や文化の壁」という表現を使って解答したのが(5a)です。しかし,さらによい解答と考えられるのはuniversalをキーワードに使う(5b)です。Verbal communication is limited.とのコントラストを端的に示すことができるからです。ただし,単に「普遍的」といっただけでは,唐突です。universalが「キーワード」であることを知っていると主張する一方で,それが,「国境や文化の壁を超える」ことでもあることを主張するために「世界中どこでも」という表現で補足するとよいでしょう。


 と,ここまで書いてきて,「指差し」というのは,それほどに強力なものだろうかという疑惑が心の中で沸き起こります。例えば,ニューギニア奥地の今も「(いわゆる)文明世界」との接触を拒む部族の中に突然入っていき「指差し」をして,communicationが取れるものなのでしょうか?


 「指差し」によるcommunicationがどのような場合にどの程度有効なのか「具体例」がないので,(5)で提示した「一般化」がどの程度妥当なのか判断できないという憾みがあります。


 と,頭が疲れてきました。かのウルトラマンですら3分が限界です。今日は,ここまでにして,次回は,「対比」と「具体例」という,英語の世界における「論理的な構成と展開」では当たり前の「道具」から,議論を再開することにします。

誰もが,誰かをねたんでいる

                                       誰もが,誰かをねたんでいる

1.はじめに
    今日は,「誰もが,誰かをねたんでいる」という文を取り上げます。本格的な議論は,学術研究の領域で行いたいと思っています。発表に応募する際の制約から,この場では,ごく基本的な事柄の,さらにその一部についてのみ簡単に触れてみたいと思います。

 

(1) 誰もが,誰かをねたんでいる。


 (1)の文は,新井紀子氏が新著『AIに負けない子どもを育てる』の中で議論しているものですが,その中核となる問題について,この新著を取り上げて紹介している印南敦史氏の記事で見ておきましょう。

 

(2)

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(印南敦史. 「小学生時に「読解力」の決定的な差が生じる理由」 東洋経済Online. 2019年10月29日)

2. 日本語を理解しない数学者
 まず,驚く(というか呆れる)のは,(1)の「受け身形」が(3)だと真面目に考えているらしいことです。

 

(3) 誰もが,誰かからねたまれている。

 

 この考え方に従うと,(4a)の「受け身形」は(4b)ということになります(英語で言うと,The corresponding passive sentence of (4a) MUST be (4b).となります)。

 

(4) a. 太郎がボールをけった。
     b. *太郎がボールからけられた。

 

    皮肉なことに,ここでは,『AIに負けない子どもを育てる』の著者自身が,AI読みに陥っています。ミイラ取りがいとも簡単にミイラになってしまうという事実は,(1)が実際には,「誰もが理解できるはずの文」ではないことを示しています(さらに深刻なことに,「日本の数学教育では,計算ができるようになっても,文章題はできない」という問題を念頭に置くと,その主因は,日本語を理解しない数学者にあるのではないかという疑念を生じさせます)。


    ここで,「ねたむ」という動詞をenvyで考えてみると,x envies y.とy is envied by x.は,論理学では,E (x, y)で表します(「ねたむ」をEという記号で表すと考えます)。つまり,論理学ではvoice上の対立を考慮しない(という問題点がある)のです。


 論理学では,xとyを変項として扱い,数量詞のallやsomeはこの変項を束縛するものとして扱います。allを∀,someを∃という記号で表すと,(1)の文は,前者がxを,後者がyを束縛するので,∀x,∃yとなります。


 一つの文に複数の数量詞が現れる場合,相互の力関係が問題になりますが,∀x>∃yの場合,∀x∃y E (x, y)と,逆に,∀x<∃yの場合には,∃y∀x E(x, y)と書き表されます。


    読み方は,∀x∃y E (x, y)の場合,For all x, there exists y such that x envies y., ∃y∀x E(x, y)の場合は,There exists y such that for all x, x envies y.となります。


 (1)の受け身文は,∀xと∃yの力関係が逆転する∃y∀x E(x, y)を表します-この点から見ると,(3)は∀y∃x E (x, y)であり,変項yを束縛する数量詞がallになります。1


 ∀x∃y E (x, y)と∃y∀x E(x, y)を比べると,前者が一般的な状況を表すのに対して,後者は,そのうちの特定の状況を表します。可能な世界という点から言えば,∀x∃y E (x, y)の表す世界が,仮に,全部でw1, w2, w3, … wnのn個あるとすると,∃y∀x E(x, y)は,このうちの「少なくとも一つの世界」に対応します。簡単に言えば,∃y∀x E(x, y)は,∀x∃y E (x, y)が表す世界の集合の内部に現れても,外部に現れることはないのです。


   ところが,新井氏が「誰もが,誰かをねたんでいる図」として挙げているのが(5)なのです(例によって,(2)と同様,印南氏の記事から該当の図を引用)。

 

(5)

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(印南敦史. 「小学生時に「読解力」の決定的な差が生じる理由」 東洋経済Online. 2019年10月29日)

 

    (5)には決定的な誤りがあります。

 

    実は,∀x∃y E (x, y)という記号列自体は,xとyが同一の集合の要素となる(環境A)のか,異なる集合の要素となる(環境B)のか指定していません。

 

(6) a. 誰もが誰かを愛している。
     b. 誰もが何か趣味をもっている。

 

    (6)を例に取ると,(6a)は,環境Aと環境Bの両方を許容しますが,(6b)の場合は,環境Bのみを許容します。


 「ねたむ」というのは,自分以外の他者に向けられる感情のことを指すので,タイプとしては,(6b)と同じになります。つまり,環境Bで考えることになります。


 しかし,(5)に引用している図は,出題者(というか解説者)は,xとyが同一の集合の要素となる「環境A」で(1)の文を理解していることを示しています。これは,∃y∀x E(x, y)が,∀x∃y E (x, y)の表す集合の外部に現れると主張することに等しくなります。


 どうやら,数学が分かること自体は,論理が分かることを保証しないようです。


 以上で,準備体操を終わることにして,この先の本格的な議論はどこかで続けたいと思います。


 自然言語の枠組みで論理を考える場合,両者の関係を見極めておく必要がありますが,現実には,この点の理解が決定的に不足しています。以下で,簡単に補足します。

 

3. 自然言語と論理(学)の関係
3.1. 自然言語における「文の意味」は「論理的な意味」とイコールとは限ら  

      ない


 自然言語の世界で「文の意味」を考える場合には,どのような状況で発話されたのか情報として提示されることが必要となります。この場合に,しばしば見落とされがちなのが,何が「論理的な意味」で,何が「論理的な意味でない」のかに関わる区別です。


    「論理的な意味」というのは,「意味論的な意味」と言ってもいいのですが,(少なくともある程度は)「数学的な意味」と言った方が,理解が早いのではないでしょうか。例えば,x is no more than 5. の「論理的・数学的な意味」は,x ≯ 5, すなわち,x ≤ 5を意味します。しかし,現在の英語教育では,この点の理解が欠落しています。

 

    言語学と論理学の関係で言えば,例えば,モダリティの捉え方が決定的に異なります。この結果,論理学が得意とする(はずの)モダリティ領域では,言語学では誤った理解をすることがあります。


(7) 日本語の「なければならない」や「あり得ない」も論理的必然性や論理的可能性を 

     表すことができる。
    (90) a. x+5=10ならば,xは5でなければならない。
                                                                                            (澤田治美. 『モダリティ』)

 

    英語で考えると分かるのですが,x must be 5のmustは「~なければならない」ではありません。この間違いを理解するためには論理学の知識が必要です(この議論も,どこかで再開したいと思います)。


    高等学校の新学習指導要領では,英語に「論理・表現」という科目が新しく導入されています。「論理」という言葉が入っていますが,自然言語と論理の関係をよく整理しておかないと,いたずらに混乱するのではないかと危惧されます。


 例えば,(8)を見てみましょう

 

(8) 

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(明日誠一. 2018.「帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です。-事例研究:人は誤りから何を学ぶことができるのか?-」注21)

 

    私見では,(8)に引用する2018年度京都大学前期英語IIIには,論理的に見て,(少なくとも)3つの問題点があります。ここでは,「主張」に関わる点について言及します。


 出題者の意図を「忖度」すると,受験生は(9a)に「反論」することが期待されていると考えられます。つまり,(9b)が真であると主張できる根拠や理由を提示することが期待されていると考えられます。

 

(9) a. No foreigners appreciate Japanese food.
     b. Some foreigners appreciate Japanese food.

 

 しかし,こと論理に限って言えば,当該の問題に関して「反論」が求められているとは言えないのです。これは,「…だと言った人」自身は,(9a)を主張していないからです。

(10) A: 海外からの観光客に和食が人気なんだって。
       B: 文化が違うのだから味がわかるのか疑問だな。
       C: それって,味がわからないってこと?

 

    「味が分かるのか疑問だ」が,仮に「味がわからない」と「同義」であるならば,Cのような発言を続けることはできません。

 

(11) A: 海外からの観光客に和食が人気なんだって。
       B’: 文化が違うのだから味がわからないよ。
       C’: *それって,味がわからないってこと?

 

    「味が分かるのか疑問だ」と「味がわからない」が「同義」でないことは,(10)の後に,(12a)だけでなく,(12b)を続けることができることからも確かめることができます。

 

(12) a. B: そうだよ。和食の味は日本人にしか分からないよ。
       b. B: 違うよ。「わかるのか疑問だ」と言っただけで,「わからない」とまでは言っ

                てないよ。

 

 つまり,(9a)が述べる内容を,(12a)に見るように,話し手が肯定することも,また,(12b)に見るように,話し手が否定することもできることは,(9a)が,話し手の主張ではなく,話し手の「会話の含意」であることを示します。


 論理において,真か偽かの対象になるのは,「会話の含意」ではなく「主張」です。Bが「(外国人には和食の)味がわからない」と述べていない以上,(9a)が誤りだと「反論」することはできないのです。


    京大の問題は,日本で育った私たちにとって「論理的に考え,表現する」ことがどれほど容易でないのかを,あらためて私たちに教えてくれる『良問』です。

 

3.2. 論理学ではvoice上の対立を考慮しない(という問題点がある)
 新学習指導要領には「論理」という言葉が出てきますが,「【外国語編 英語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 」をざっと見たところの印象では,文科省の考える「論理」というのは,cohesionという概念にほぼ収束するのではないかと思われます。


    では,

 

(13)の後に(14),あるいは,(15)を続ける場合,a文とb文は,どちらも同じ程度に自然につながるでしょうか?

 

(13) The Prime Minister stepped off the plane.
(14) a. She was immediately surrounded by journalists.
       b. Journalists immediately surrounded her.
(15) a. She immediately greeted all the journalists.
       b. All the journalists were immediately greeted by her.
                                                  (A. Downing and P. Locke, English Grammar)

 

    主題関係から言えば,(14a)と(14b),(15a)と(15b)は「同義」ですが,(13)の後に続けた場合には,(14a),(15a)の方が,それぞれ,(14b),(15b)より自然なのです。


 自然言語では,何かをトピックに選んだら,そこに視点を置いて,新しい情報を提示することが自然な「論理的構成や展開」となるからです。


 論理学で言う「論理」,例えば,x envies y.もy is envied by x.もどちらもE (x, y)を表すという考え方に単純に従うと,自然な英語で表現することの妨げとなるのです。


 「論理的に考え,表現する」ことが重要である点に異論をさしはさむ人はいないと思いますが,それが具体的に何を意味するのか,自然言語のもつ特性と合わせて考えることがないと,結果的に,非論理的な思考や不自然な言語表現を固着化する悲劇を生むことになりかねません。


 次回は,2018年の試行テスト国語の第一問で出題された「指差しが魔法のような力を発揮する」を取り上げます。

 


1. nameから整理すると,(1)と(3)の違いは,作用域の違いではなく,主題関係の違いで説明ができます。(i)を述語論理風に表すと(ii)になります。
(i) John envies and is envied by Mary.
(ii) E (John, Mary) & E (Mary, John)

    Johnの代わりに,John, Bill and Tom, つまり,everyoneを,Maryの代わりにsomeoneを入れれば,
(iii) Everyone envies and is envied by someone.
となります。
    ということは,E (Mary, John)から出発して(iii)を記号化すると,まず,xとyの位置を入れ替え,E (y, x)として,次に,yを束縛する∃,xを束縛する∀を加え,最後に,作用域が∀x>∃yになるように設定すると,∀x∃y (y, x)となります。
 以上を整理すると,(1)は∀x∃y E (x, y),(3)は∀x∃y (y, x)となります。
 両者は,作用域が∀x>∃yとなる点が共通ですが,主題関係が違うので同義ではない,ということになります。つまり,John loves Mary.とMary loves John.の違いと同じタイプの違いということになります。

天の川銀河の中心にあると推定されているのはブラックホールである

    今日は,「天の川銀河の中心にあると推定されているのはブラックホールである」という文を取り上げます。

 (1)に引用するのは,RSTのサンプル問題の一つで,「係り受け」領域に分類されています。

 

(1) 

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(「リーディングスキルテストの実例と結果 (平成27年度実施予備調査)」)

 

  空所に入る正答は「ブラックホール」とされていますが,これは誤りです。

 

  理由は,上方含意が成立しないからです。例えば,(2a)が真であれば,(2b)もまた真になります。

 

(2) a. John bought a Ford car.

      b. John bought a car.

 

 一見すると,「太陽の400万倍程度の質量をもつブラックホール」は「ブラックホール」の下位集合に当たるので,(1)の空所に前者が入るのであれば,後者もまた同様に入ると考えても何の問題もないように見えます。

 

 しかし,この判断は誤りです。

 

 「推定」という単語は,意味論的には,命題ではなく数量詞と結びつくからです。

 

  先に進む前に,辞書の「用例」を見ておきましょう(赤字標記は筆者による)。

 

(3) 推定:はっきりとはわからないことをいろいろな根拠をもとに、あれこれ考えて決

     めること。 「費用は五億円と-される」 「 -年齢三〇歳

                                                                                                        (三省堂 大辞林 第三版)

 

 費用や年齢といった「尺度」と関わるモノについて,具体的な数値で見積もることを指して「推定」という単語が使われるのです。

 

 英語でいうと「推定する」は,estimateに相当します。

    用法を,例えば,LDOCEで確認すると,wh-疑問詞が使われている最後のタイプ(estimate how many/what etc)を除いて,at least 700,  50,000,  around 12のように,具体的な数字を挙げることで話し手の判断を示しています(赤字の下線は筆者による)。

 

(4) 

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(LDOCE)

  「推定する」という語の使い方を正しく理解していれば,情報構造上,焦点となるのは,質量が「太陽の400万倍程度」となるはずのところですが,出題者は,どうしたわけか,「ブラックホール」が焦点であると誤って解釈してしまっています。

 

(5) 天の川銀河の中心にあると推定されているのは[focusブラックホール]である。

 

 「…なのはX(焦点)である」という構文に,どうしても固執したいというのであれば,(6)のように分析すれば解決しないわけではありません。

 

(6) 天の川銀河の中心にあるブラックホールの推定質量は[focus太陽の約 400万倍程度]で

  ある。

 

 念のために,英語で考えてみましょう。ここでは,論点を明確にするために,「天の川銀河の中心にある(超大質量の)ブラックホール」を「いて座A* (Sagittarius A*)」に置き換えることにします。1

 

 すると,(1)で提示される文は,ほぼ次のように言い換えることができます。

 

(7) いて座A*は,400万個の太陽に相当する質量をもつと推定されている。

 

 (7)を英語で表現するとどうなるでしょうか?

 

   多くの人が思い浮かべるのは,(8)や(9)ではないかと思います。

 

(8) It is estimated that Sagittarius A* has a mass equal to four million suns.

(9) Sagittarius A* is estimated to have a mass equal to four million suns.2

 

 実は,もう一つ大切な表現の仕方があります。

 

(10) Sagittarius A* has an estimated mass equal to four million suns.

 

  自由交替という観点から言えば,少なくとも(9)と(10)は,Sagittarius A*をトピックに文を始めているので,一方が使用できる状況では,もう一方も同様に使用できる点で「同義」であると言えます。

 

 (8)の表現しか知らないと,estimateがthat補文の表す「命題」にくっついているように見えますが,(9)や(10)の言い方も理解できていれば,出題者と同様の誤りを犯すことから自由でいることができるでしょう。3

 

   仮に,「教訓」という表現を用いるとすれば,表面構造を分析しただけでは見えてこないものがある,と言えるでしょうか。

 

 次回は,「誰もが,誰かをねたんでいる」についてごく簡単に言及したいと思います。

 

1. 例えば,G. I. Redfern, Cruise Ship Astronomy and Astrophotographyを見ると,(i)に引用するような記述が見つかります。

(i) Our own Milky Way Galaxy has a 4.4-million solar mass supermassive black hole at its center called Sagittarius A* - abbreviated as Sgr A* and pronounced “Sagittarius A Star.”

2. タイプミスの修正(of equal→equal) (2019年12月7日)

    a mass equal to four million sunsの代わりにa mass of four million sunsという言い方も可能です。ofの用法は多岐にわたるので,ここでは,誤解の少ないequal to を挙げています。ofの場合,a mass of four million solar massesという言い方も見られますが,同一文中にmassという語が繰り返し現れることになるので,できれば避けた方が賢明に思われます。  

3. estimateが「具体的な数値で見積もる」と言う点では,(i)のような例を提示さ れれば,一番納得がいくでしょう。

(i) In 1920, an estimated four million Americans had joined the Klan.

(P. Levenda, The Hitler Legacy)

 (ii)のような言い方も容認されるようですが,(10)と比べると,それほど一般的ではないようです。推定の対象が「属性」と関係していることが一因ではないかと思われますが,もう少し調べてみないとはっきりしたことは分かりません。

(ii) Sagittarius A* has an estimated four million solar masses.

かつて大量の水があった証拠が見つかっているのは火星である

                       帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#6

                      -かつて大量の水があった証拠が見つかっているのは火星である-

 

1. 問題の設定ができていない出題者

 (1a)は,(1b)の例題で,「代名詞が何を指しているのかを正しく認識する」ことができているかどうかを診断する問題として提示されています。

     

(1) a. 

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     b.  

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一般社団法人 教育のための科学研究所. 「『リーディングスキルテスト』とは」

 

  「この文脈」の「この」の中には,「そこ」や「これ」といった代名詞が存在しないので,どの代名詞について先行詞を探せばよいのか不明な出題となっています。

 好意的に解釈すれば,音形を持たない「ゼロ形」のpro-formの先行詞を探す問題にしたかったのだと思いますが,それであれば,その「ゼロ形」が統語上のどの位置にあるのかを明示すべきだったと思います。

 

  (1a)の問題文の第2文を2つに分割し,(2)のように修正して議論を進めることにします。

 

(2) (a)火星には,生命が存在する可能性がある。(b)かつて大量の水があった証拠が見つかっている。(c)現在でも地下には水がある可能性がある。

 

 出題者は(2b)の文のどこかに「火星」に相当するゼロ形の代用表現があると考えているわけですが,例によって英語の視点から検証してみましょう。1

 

 「証拠」をevidenceで表すことにすると,「証拠が見つかっている」は,evidence is found that…ではなく,there is evidence that…とするのが自然ですが,あえてfindを生かすとすれば,{We / Scientists} have found evidence that…とすることが考えられます。

 

 次に「かつて大量の水があった」ですが,この中にMarsを入れて英語で「復元」できると仮定すると,主語の選択の仕方に応じて,3通りに表現できます。

 

(3) a. there was once abundant water on Mars

     b. water was once abundant on Mars

     c. Mars once had abundant water on it

 

 確認の意味で,日本語に視点を置いて,日本語との対応関係を考えると,(3a)は考察の対象から省くことになります。日本語の「存在文」は「むかし,むかし,おじいさんとおばあさんがありました/いました」が端的に示すように,場所に関する情報は義務的に必要なものではないからです。

 

  ついで再び,英語に戻ると,(3b)のon Marsと(3c)のon itは義務的な要素ではないので,省略が可能です。ここで2つの問題が発生します。

 

 1つは(3b)に関係します。on Marsがoptionalであることは,(2b)の「かつて大量の水があった証拠が見つかっている」の中に「火星」に相当する「ゼロ形」が存在しない可能性を示唆します。2  つまり,「火星」と(2b)を談話上でつなぐ架け橋になっているのが「ゼロ形」ではない可能性があります。

 

  結局のところ,統語構造の中に「火星」を指示する「ゼロ形」が存在しない可能性があります。この場合,出題者による(2b)の統語構造に関する分析は誤りとなり,(1a)の出題は成立しないことになります。言い方を換えれば,出題者は「かつて大量の水があった証拠が見つかっている」のどの位置に「火星」を意味する「ゼロ形」が存在するのか,そして,それがどのような統語的証拠によって裏付けられるのか,説明する責任を負うことになります。

 

 もう1つの問題は,日本語の場所格をどう扱うかという問題です。(3b)のon Marsがoptionalであるということは,「ゼロ形」が存在する可能性が,(3c)に相当する主語の位置に現れる場合に限られることを示唆します。

 

 このことは,(2a)を英語で考えるとはっきりします。「可能性がある」をmightで表すと,(2a)は次のように表すことができます。

 

(4) a. {There might be life / Life might exist} on Mars.

   b. Mars might harbor life.

 

 「火星には」はrestrictorとして働いているのではなく,「火星に」をトピックとして取り上げています。「に」自体は場所格として機能するので,この点を生かせば(4a)のような対応文が考えられますが,トピックという視点から言うと,「火星」は,(4b)に見るような「(英語で言う)主語の役割」を担っていると見ることができます。

 

 「主語」という表現が混乱を招くのであれば,三上章の「象は鼻が長い」に還元すると照応関係に解決がつきます。つまり,(2a)を「火星(という惑星)は,生命が存在する可能性がある惑星である」と理解するのであれば,(2b)の「かつて大量の水があった」は「火星は,かつて大量の水があった惑星である」と分析できるので,この場合には,「火星」と(2b)を談話上でつなぐことができます。

 

 しかし,です。ふりがな文庫ラボが提供するCaboChaを使って(2a)を係り受け解析すると次のような結果になります。

 

(5) 

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 RSTの係り受け解析の水準が,これと大同小異であると仮定すると,(2a)は「XはYがZである」の構造として再解釈できないことになります。正確に言えば,現状では,係り受け解析(や照応解析)は,「は」を主題関係の視点から「が」や「を」に変換して解析しているので,トピックや焦点といった「情報構造」が関与する領域はもともと守備範囲には入っていないのです。その結果,(1a)の問いに解答を与えることができないのです。出題者は,自分の守備範囲を逸脱して,自分では解けない(し,また説明もできない)問題を受検者に課していると言えます。

 

  もっとも,言語学的には面白い点を含んでいます。

 

 「かつて大量の水があった」を(3c)で考えると,(2b)は(6)のように表すことができます。

 

(6) Scientists have found [evidence [that Mars once had abundant water]].

 

 Marsは複合名詞句内にあるので,Marsをwhich planetに変えて文頭に移動すると,英語では非文になります。しかし,wh-句が元の位置に残り,疑問を表す「か」が文末に現れる日本語では,(7b)に見るように,容認されます。

 

(7) a. [[かつて大量の水がどの惑星にあったのか]証拠]が見つかっている。

     b. [[かつて大量の水がどの惑星にあった ]証拠]が見つかっているのか?

 

    島の制約はwh-句移動と関連づけて考察されますが,(1a)は,焦点化の視点から見ることもできることを示している点が興味深いと言えます(wh-句に変換するので,日本語では「に」格のままで考えることになります)。

 

 もう1つ興味深いのは,焦点化における「に」格の有無です。英語と比較できるようにするために「証拠」(とそれに関係する部分)を取り除いて,(2b)を「かつて大量の水があった」と単純化します。

 

 英語では,場所や時を表すPPが分裂文の焦点の位置に現れる場合,前置詞はoptionalに選択されます。

 

(8) (In) Autumn is when the countryside is most beautiful.  (Quirk et al. 1985:1388)

 

 しかし,日本語の場合には,後置詞句とも言うべき「火星に」は,メタ言語的に使うのでもない限り,「に」を脱落させないと非文となるのではないかと思います。

 

(9) a. かつて大量の水があったのは,火星である。

   b. ?/*かつて大量の水があったのは,火星にである。

 

2. 考える楽しさを奪う出題者

 (2)に戻ると,(2a)が主張で,(2b)と(2c)はその根拠を提示するという関係にあります。「生命の存在」の根拠が「水の存在」であると言った場合に,「生命」と「水」の間にどのような条件が成り立つのかが問題になります。

 

   (10a)と(10b)のどちらが正しいでしょうか?

 

(10) a. Water is a sufficient condition for life.

       b. Water is a necessary condition for life.

 

    Life can’t exist without water.と言えるので,(10b)が正しい,ということになります。

 ここで「他の条件がすべて地球と同じ惑星」に水が存在することが分かったとします。この場合,(10b)は十分条件を構成する条件の一つとなります。

 

 水以外に「十分条件を構成する必要条件」が何かを考えると,life as we know itとは何かを考え直すよいきっかけになります。例えば,偏性嫌気性生物の存在を考えると,人間が酸素を必要とするように進化したのがなぜか調べてみたくなるかもしれません。(1a)の本当の面白さというのは,そうした問いを自分で「発掘」,「調査」して,自分で納得のいく「解答」をまとめることにあるのではないかと思います。

 

3. 教科書を批判的に読む

 高等教育の長所の一つは,盲目的に信じないことにあります。検定教科書だからといって,その内容や記述の仕方を無批判に受け入れることを正しい選択とは考えないのです。

 

 (1a)は,教科書の記述のあり方(および,検定のあり方)について,見直すべき時であることを示していると考えることができます。

 

 (2)を和文英訳というか,翻訳の問題と考えてみましょう。(2b)に「証拠」という表現があるために,(2b)と(2c)をparallelな構造で表現するのが難しくなるのですが,細部を「無視」すれば,interpolationを使うことですべての問題を簡単に解決できます。

 

(11) Mars might harbor life. The evidence so far shows that water was-and may still be-present on {Mars / there}.

 

 特に重要な点に的を絞ると,water wasのwasは,聞き手にwater is no longer present {on Mars / there}という「会話の含意」を推論させるので,この含意を取り消さないと,(2a)の主張が成り立たないことになります。つまり,(2c)の役割は,この「会話の含意」を取り消すことにあるので,and may still be [=and water may still be present {on Mars / there}]を挿入的に(2b)に加えることで問題は解決します。

 

 何が言いたいのかというと,(2a)が真であると主張する場合,論理に限って言えば,かつて存在した「水の量」とか,現時点で存在する可能性のある「水のありか」については言及する必要がないということです。例えば,「大量にあった」と主張したからといって,情報的には無価値です。価値があるとすれば,there was enough water {on Mars / there} (to support life)のような情報が考えられますが,生存に必要なミニマムな量がどのぐらいかは,そもそもどのような生物が存在しているのか分からない限り具体的に述べることができない事柄です。つまり,最初の段階で言えるし,また,言わなければならないのは「水が存在し続ける(可能性)」だけなのです。

 

 (1a)の出典が明記されていないので分かりませんが,仮に教科書であるとすると,この記述は,論理を学ぶ意味では,学習者が手本とすべきものとは言えないことになります。論理的に考える力を伸ばすのが目的であれば,素材そのものの吟味から始めることが必要です。「論理的に考える」ということに軸足を置くのであれば,教科書の記述や検定の在り方を見直すことが必要不可欠であることを(1a)は教えてくれています。

 

 次回は「天の川銀河の中心にあると推定されているのはブラックホールである」について考えてみます。

 

1. 安武 (2009)は「日本語の場合,代名詞(厳密に言うと,インド・ヨーロッパ諸語の代名詞に類するもの)は焦点の位置にくるのが自然である。その他の位置では,… ゼロ代名詞が生じる」と述べています。つまり,今回の出題に照らして言うと,英語では,「音形を持つ代名詞」で表される統語的な環境において,日本語では,非焦点の位置に現れているために,統語上は確かに存在しながらも,表面上は,ゼロ代名詞としてinvisibleな状態のものを,焦点要素の現れる位置に移動するという操作を行うことによって,可視化する試みをしていると考えることができます。

 

2. 京都大学 黒橋・河原研究室が公開している構文・述語項構造解析KNP(デモ(テーブル版)は,興味深い結果を示しています。

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   照応解析では,「火星の証拠」を「火星にあった」よりsalientな解釈として分析しています。「火星の証拠」の「の」が「犯人の証拠(φが犯人である証拠)」のタイプではなく,「~についての」という意味を表すものとすると,確かに,英語にもevidence on Xi [that…Xi…]という言い方がありますが,evidence that […X…]のタイプと比べると出現頻度は著しく低くなります。

 

Alexandraの愛称はAlexである

                         帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#5

                             -Alexandraの愛称はAlexである-

  1. 教科書が読めていない出題者

 今日は,(1)に引用する問題について考えてみたいと思います。

 

(1) 

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(新井紀子. 2016. 「AIが大学入試を突破する時代に求められる人材育成 資料3-1」)

 

 (    )内には,選択肢AのAlexが入ると出題者は主張しています。これは,結局のところ,「(2a)と(2b)が同義文である」と出題者が理解していることを示します。

 

(2) a. AlexはAlexandraの愛称である。

      b. Alexandraの愛称はAlexである。

 

   この理解は果たして正しいでしょうか?

   英語で考えてみると問題点がはっきりします。

 

 先に進む前に「愛称」をどう訳すか見ておきましょう。Alexandraは,syllabicationから見ると,Al・ex・an・draのように4つの音節に区切ることができます。この点を頭に入れて,AlexとAlexandraの2つを見比べると,Alexというのは,Alexandraから第3音節以降を切り取って「短くした形」であることが分かります。この点に着目して,「愛称」をshort formで表現することにします。

 

  すると,今回のポイントは,(2a)を英語で考えた時に,対応する文が(3a)なのか(3b)なのかという問題に帰着します。

 

(3) a. Alex is a short form of Alexandra.

      b. Alex is the short form of Alexandra.

 

 X is Y.の形式で,XとYの位置を入れ替えても文として成立するのは,Yが定名詞句の場合に限られます。従って,「(2a)と(2b)が同義文である」という出題者の主張が正しいと仮定した場合,(2a)と(2b)のそれぞれに対応する英文は,(4a)と(4b)ということになります-(1)で問題にしているAlexは,人そのものではなく,人の名前を指す点でメタ言語的に使われていますが,この点については議論しないことにします。

 

(4) a. Alex is the short form of Alexandra.

     b. The short form of Alexandra is Alex.

 

 (4a)は二通りの解釈が可能ですが,同様のことが(4b)にも当てはまるかどうかはよく分かりません。仮に(4b)が二義的であったとしても,もっとも自然な解釈はspecificationalな解釈だと考えられます。指定文とは何かというのも単純ではないのですが,ここでは「the short form of AlexandraとAlexが,それぞれ,wh-疑問文とその答えの関係となる文」と考えておくことにしましょう。

 

 つまり,(4b)というのは,The answer to the question “What is the short form of Alexandra?” is “Alex.”と考えるのです。すると,the short form of Alexandraの中に隠れているwh-疑問文に対応する「すべての可能な答え」は「Alex一つ」ということになります。

 

 それでは,日本語の世界に戻りましょう。

 

(5) AlexはAlexandraの愛称である。[=(2a)]

 

 ここまでを整理すると,出題者は(2a)を「Alexただ一つがAlexandraの愛称である」と理解していたことになります。

 

  では,事実はどうでしょうか? 英語の世界で検証します。

 

(6) The name [=Alexandra] has developed many short forms, some of which are now used as names in their own right. These include Alex, Alexa, Sandra, Sandy, Alexis and Alix.         (E. Wood, The Virgin Book of Baby Names, emphasis original)

 

  実際には,Alexandraの愛称は複数存在するので,出題者の理解は誤りということになります。

 

 実は,新井紀子氏は別の場所で次のように発言しています。

 

(7) 

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新井紀子. 2013.「平成24年国立情報学研究所市民講座第7回『大学生の数学力,なう-数学基本調査をよくみてみると?-』」

 

  「XはYである」が真であるからといって,XとYを入れ替えた「YはXである」が必ずしも真とはならないことを知っているはずの数学者でも「AlexはAlexandraの愛称である」と「Alexandraの愛称はAlexである」を同義文であると判断するという初歩的なミスを犯してしまうのです。

 

 数学ができるからといって,自然言語を使って論理的に考えることができることを保証するわけではないのです。

 

 しかし,と思わずにはいられません。

 

 教科書会社はなぜ誤りを指摘しなかったのでしょうか? 英語の教員免許の取得に関わる研究機関もどうして放置していたのでしょうか? 

 

   Alexをトピックとして始まるコピュラ文なので,property NPが続くと予測するのが自然言語の理解としてはもっとも自然な展開です。1

 

 いったいどうしてこんな状況が起こってしまっているのでしょうか? どこかで基本がなおざりにされている,ということに大きな危惧を感じます。

 

  この問題の続きは,どこかで取り上げてみたいと思います。

 

 次回は,「かつて大量の水があった証拠が見つかっているのは火星である」について考えてみます。

 

〔注〕

1.  これは,predicationalの readingでは,be動詞の後に定名詞句が続かないということを意味しているわけではありません(Alexをトピックとして,例えば,Alex is the winner.のような言い方は可能です。この点も含めて別の機会に論じたいと思います)。単に,(1)の問題文で「Alexは男性にも女性にも使われる名前」まで読んだ段階で,定名詞句が続かないと「予想」できると言っているに過ぎません。

 もっとも,この情報(Alexが単独で男女共通の名前として使うことができること)は,時系列から見ると,最後に提示されるべき情報でした。