現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

指差しが魔法のような力を発揮する(1)


                            指差しが魔法のような力を発揮する(1)
 
1. はじめに
    坂道を転がる。日本の地盤沈下は,まさに,そうした急激な変化において進行を始めているように肌で感じます。常に何らかの激動の中で人々は暮らしてきたと言えるのかもしれませんが,こと,これからの人々のことに思いをはせる時,「考える力」を自らの内に培うことの重要さ,そして,そのために具体的に何を実践すべきなのかを日々に反芻しています。


 声なき声の一つをここに記しておきたいと思います。

 

2. 「論理」が何か大学入試センターは理解しているのだろうか?
    今日は,「指差しが魔法のような力を発揮する」を取り上げます。


    (1)は,大学入試センターが2018年に実施した「平成30年度試行調査・国語・第1問」の文章I・第3段落から引用したものです(引用では,横書きに変えています)。また,(2)は(1)の下線部(原文では「傍線部」)についての設問です。

 

(1) ことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする状況を

  考えてみよう。この時には,A指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。なんと言

     っても,指差しはコミュニケーションの基本なのだ。
(2)【文章I】の傍線部A「指差しが魔法のような力を発揮する」とは,どういうことか。

      三十字以内で書け(句読点を含む)。       

                                                                              (「平成30年度試行調査・国語(問題)」)

 

    国語の記述試験については,「採点の信頼性・公平性」と「自己採点の困難性」が議論の中心になっていますが,第1問を見る限りでは,むしろ,問題の本質は,「出題(者)に対する信頼性」,最終的には,「欠落した論理性」にあると考えています。


 まず,最初に断っておかなければならないのは,本稿の意図が,(1)の文章の作者を批判することにはないということです。作者は,大学受験生の理解力と表現力を適切に診断するという目的のもとに,「論理的な構成と展開」を念頭に置いて文章を書いているわけではないからです。


 「論理」という視点から見た時に,(1)において真っ先に問題になるのは,「指差しが魔法のような力を発揮する」とはどのようなことを意味するのかについて,作者自身は自分の言葉で説明していないということです。つまり,「「指差しが魔法のような力を発揮する」とはXである」と作者自身は述べていないのです。論理においては「Xである」,つまり,「Xであるが正しい」と主張している部分が,真か偽かの判断の対象になります。


 しかし,(1)においては,作者はXが何かについて主張していないので,つまり,作者は正解が何か自分の言葉で説明していないので,Xの部分にどのような答えを入れたとしても,どれが「正解」でどれが「不正解」か,は判断できないのです。


    大学入試センターは解答例として(3)を提示していますが,これは,「大学入試センターの考える正解」に過ぎないのです。

 

(3) a. ことばを用いなくても意思が伝達できること。
     b. 指さしによって相手に頼んだり尋ねたりできること。
     c. ことばを用いなくても相手に注意を向けさせることができること。

 

     つまりは,(2)の設問は,出題者の考える「正解」を受験生に当てさせる「推理ゲーム」になっているのです。受験生が自分の答案が何点で採点されるのか不安に思うのは,当然の帰結で,「採点者の質」などは周辺的な問題に過ぎないのです。

 

    視点を英語学習に移動すると,「平成30年度試行調査・国語・第1問」は,なぜ日本人の英語力が伸び悩んでいるのかを解き明かす一つの重要な鍵を与えてくれます。


    (4)は,日本科学哲学会第52回年次大会に応募した時の発表要旨から引用したものです。

 

(4) 英語というのは,相手を説得する言語であることはよく知られている。英語の学習 

    で見落とされがちなのは,効果的に「説得」するためには,相手が理解に困るような

    言い方をしない,ということである。相手があれこれ考えなくても,なるほどそうだ

    と思えるぐらいに,明快に論じることである。
(明日誠一. 2019「女性はマイノリティと考えられる-「考える力」をつけるために(不)必要なものを事例研究から考察する-」)

 

 仮に,(1)が英語で書かれた文章だと考えてみましょう。この場合,「指差しが魔法のような力を発揮する」という表現に出会って一瞬,戸惑う読み手も,それが具体的にどのようなことを意味するのか,作者自身による説明が後に続くと期待することでしょう。


    いわゆる大学入試の二次試験であれば,「指差しが魔法のような力を発揮する」とは何かと尋ねられた時,後に続く記述の中から該当する部分を抜き出して,日本語でまとめることが要求されていると受験生なら理解するでしょう。


 日本で育った私たちにとって「論理的に考える」力は,母語である日本語によって基礎づけられますが,英語を使って議論することが適切に行えない重大要因の一つとして,母語の教育において,真偽の対象となる「論理的な意味」とは何かという基礎的なことを学ぶ機会が欠落していることを指摘できるでしょう。


 「考えるだに恐ろしい」という表現がありますが,実際に出された問題,しかも,それがreadingとは何かに関わる根源的な「理念」を体現した例として出された問題,であることを考慮すると,大変に言いにくいことなのですが,語弊を恐れながらも,なお,真実に目を向けながら言えば,大学入試センターは「論理」とは何かを理解していないのではないかという恐怖の可能性(あるいは「現実」)に突き当たります。

 

3. Pointing is universal.
 とは言え,「読む」というのは,畢竟,「つじつまが合うように読む」ということなので,もろもろの困難を乗り越えて,(2)の設問の答えを書いてみるという「蛮勇の挙」に挑んでみましょうか。


 私なら,

 (5)のように書きます。

 

(5) a. 指差しは,国境や文化の壁を超えて意思の疎通を可能にすること。(30字)
  b. 指差しは,世界中どこでも普遍的に意思の疎通を可能にすること。(30字)

 

 では,なぜ(5a)や(5b)のような解答を書くのでしょうか?


 まず,「発揮する」にとってobligatoryな要素である「この時には」まで下線に含めて考えると,作者は下線部で「指差しのdisposition」について触れていると考えることができます。


 英語で考えると,dispositionは助動詞のwillを使って表されます。

 

(6) Oil will float on water.

 (6)の意味は,(7)のようなパラフレーズで示すことができます。

 

(7) If oil is put into water, oil will float on water.

 

 つまり,(6)は「水の中に入れるという条件下では,油は「水に浮く」という性質を発揮する」という意味を表します。


 この点を踏まえて,下線部Aを「Xという条件下では,指差しはYという性質を発揮する」と変項を使って言い換えてみます。(1)からXとYに入る表現を抜き出して埋めると,

 

(8) 「「Xことばのまったく通じない国に行って,相手に何かを頼んだり尋ねたりする」条件下では,指差しは「Y魔法のような力」という性質を発揮する」

 

となります。
 もう一歩踏み込んで,「ことばの通じない」はverbal communication doesn’t work,「相手に何かを頼んだり尋ねたりする」をmake yourself understoodと言い換えてみると,

 

(9) 「「X verbal communicationが成立しない国で,意思の疎通をはかる」条件下では,指差しは「Y魔法のような力」という性質を発揮する」

 

とまとめ直すことができます。


 ポイントは,verbal communicationというキーワードを抽出することができるかどうかです。ここに気がつくことさえできれば,

 

(10) There are two types of communication: verbal and non-verbal.

 

という知識が「活性化」されるはずです。


 non-verbal communicationと言えば,eye contact,顔や声の「表情」,腕組みや貧乏ゆすりなどの「姿勢」,さらには,服装や化粧-例えば,「ポロシャツ姿で法廷に姿を現す弁護士」とか,「葬儀に派手なメイクで現れる未亡人」を想像してみよう-が思い浮かぶことでしょう。特に,「目は口ほどにものを言う」というように,眼差しは,自分の考えや感情を,メッセージとして相手に効果的に伝える力を持つことが思い出されるところです。


 ここまでたどり着けば,今回の文章では,「指差し」もまたnon-verbal communicationとなることを述べていると推察がつくでしょう。


 すると,作者は,数あるnon-verbal communicationを差し置いて,「指差し」に特有に見られるある性質を指して「魔法のような力」と述べていることにも気がつきます。


 ここで,いったん視点を変えてverbal communicationの制約を考えてみましょう。


 言語というのは,「バベルの塔の説話」を思い出すまでもなく,同じ言葉を話す人々同士を強く結びつける一方で,同じ言葉を話さない人々を排除するという二つの異なる力を同時に発揮します。例えば,津軽弁を話す人が,新橋駅で,津軽弁を話す人を見かけたら,それが初対面の人であっても,親近感が湧き,思わず話しかけてしまうかもしれません。また,飲み会で,周りが大阪弁の人ばかりで,自分一人が違う方言を話すことに気がついた瞬間,その人は,顔では笑っていても,内心では,居場所を失ったような心持ちになるかもしれません。


 言語には,ingroup membersの間で友好的な関係を強化する一方で,outgroup membersに対しては排他的な関係を生じさせる(という潜在的な)力があります。つまり,人と人の間に壁や垣根を作る力があるのです。


 ingroupかどうかの「境界」を決定するのは,通例,政治や文化と考えることができます。政治に関しては「国境」という言葉を使えば,verbal communicationは,「国境や文化の壁」という「有界」の中でのみ有効に機能すると言えます。


 他のnon-verbal communicationとも違って,「指差し」には,この有界性を打ち破る力があるとすれば,それは,確かにある意味「魔法のような力」と考えることができます。


 「国境や文化の壁」という表現を使って解答したのが(5a)です。しかし,さらによい解答と考えられるのはuniversalをキーワードに使う(5b)です。Verbal communication is limited.とのコントラストを端的に示すことができるからです。ただし,単に「普遍的」といっただけでは,唐突です。universalが「キーワード」であることを知っていると主張する一方で,それが,「国境や文化の壁を超える」ことでもあることを主張するために「世界中どこでも」という表現で補足するとよいでしょう。


 と,ここまで書いてきて,「指差し」というのは,それほどに強力なものだろうかという疑惑が心の中で沸き起こります。例えば,ニューギニア奥地の今も「(いわゆる)文明世界」との接触を拒む部族の中に突然入っていき「指差し」をして,communicationが取れるものなのでしょうか?


 「指差し」によるcommunicationがどのような場合にどの程度有効なのか「具体例」がないので,(5)で提示した「一般化」がどの程度妥当なのか判断できないという憾みがあります。


 と,頭が疲れてきました。かのウルトラマンですら3分が限界です。今日は,ここまでにして,次回は,「対比」と「具体例」という,英語の世界における「論理的な構成と展開」では当たり前の「道具」から,議論を再開することにします。