現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

平氏は義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた

                    帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#4

                   -平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた-

1. 受動変形はmeaning-preservingではない

 「能動文と受動文は『同義文』である」という考え方はとうの昔に否定されています。かれこれ50年近くになるでしょうか。

 

 生成文法(やHallidayの機能文法)の研究者であれば,この誤りを容易に正すことができる立場にあったにもかかわらず,なぜ看過したのか疑問に思っています。

 

  (1)の問題について,みなさんはどうお考えになるでしょうか。

 

(1) 

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 (一般社団法人 教育のための科学研究所. 「『リーディングスキルテスト』とは」1)

 

 2. 可能な世界から同義関係を眺めてみると

 可能な世界という視点から考えると,「異なる」場合があると考えられます。先入観を捨てるというのは難しいことですが,いったん現実世界の知識を脇に置いて(2a)と(2b)の可能な解釈を考えてみましょう。

 

(2) a. 義経平氏を追いつめ,ついに壇ノ浦でほろぼした。

  b. 平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた。

 

  「優勢な解釈」という点では,(2a)と(2b)は異なる場合があると考えられます。

 

 「追いつめる」と言った場合,「包囲網を狭める」という意味で解釈できますが,「追いつめられる」の場合には,「勢力が段階的に削がれる」という意味で解釈する可能性が考えられます。前者に立てば,(2a)は「義経平氏の包囲網を狭め,最終的に,壇ノ浦で平氏を一網打尽にした」と解釈できますが,後者に立てば,(2b)は「義経平氏を一人一人打ち取っていき,壇ノ浦で最後の一人を打ち取った(結果,平氏は全滅した)」と解釈できる可能性が考えられます。

 

 同義性を重文のレベルで考えるというのは斬新な試みだと思うのですが,考慮しなければならないパラメータが多いので,もう少し単純化してみたいと思います。

 

(3) a. …, 平氏はついに壇ノ浦でほろぼされた。

   b. …, ついに平氏壇ノ浦でほろぼされた。

      c. …, ついに壇ノ浦で平氏はほろぼされた。

 

 (2b)の文の後半で「平氏は」を補うと(3)のように3つの可能性があります。問題なのは(3c)です。「壇ノ浦で」をS adverb(ial)と考えると,「平氏」の解釈がexistentialになる可能性があるように思うのですが,現段階ではpendingにしておきたいと思います。

 

 単純化して,(4)で議論を進めることにします。認知言語学であれば,(4a)と(4b)はsynonymousではないと主張すると思いますが,trajectorの問題はここでは扱わないことにします。2

 

(4) a. 義経平氏をほろぼした。

     b. 平氏義経にほろぼされた。

 

  (4a)を一般化すると「XはYをほろぼした」となります。ここで何が問題かというと「ほろぼした」の意味がconstantにならないことです。

 

 純粋に論理学の枠組みで同義性を扱うことができるのであれば,XとYの組み合わせにかかわらず,「ほろぼした」の意味はconstantになるはずですが,実際には,XとYの組み合わせによって,「ほろぼした」の意味が変化します(ここでは,「論理」に視点を置いているので,(5)における「は」と「が」の違いについては考慮しないことにします)。

 

(5) a. [地球に衝突した巨大隕石]が[恐竜]をほろぼした。

     b. [現生人類]が[ネアンデルタール人]をほろぼした。

     c. [高句麗]が[百済]をほろぼした。

     d.[信長]は[武田氏/武田勝頼]をほろぼした。

 

 「Yをほろぼす」を,‘cause Y to ほろびる’と考えてみましょう。すると,「ほろびる」というのはkind readingを選択する動詞なので,「Yをほろぼす」と言ったときには,(5a)に見るように,恐竜という「種の絶滅」の意味で使うのが典型的なはずなのです。3

 

 ところが,人間と関係する場合には,意味が変わってきます。

 ネアンデルタール人という種は絶滅したのかもしれないのですが「ネアンデルタール人の血が現生人類に流れている」という言い方は可能です。また,「百済は一度ほろんだが,熊津を新たな都として再興した」という言い方も可能です。甲斐武田氏は13代で一度ほろびますが,その後再興して「20代の武田勝頼で再びほろんだ」という言い方も可能です。

  

 このように「ほろぼす」というのは多様な意味で使われますが,個々の意味は,特定の文脈を考慮することで導き出されます。しかし,形式論理学では,こうした文脈を一切考慮しないので,「ほろぼす」と「ほろばされる」の同義性を論理学の観点から考えるのには不適切なのです(つまり,出題として不適切なのです)。

 

 さらに言えば,「XはYをほろぼした」という設定にして,Y氏に「物部氏」,「蘇我氏」,時代を下って戦国期の「大内氏」,髑髏杯でも知られる「浅井氏」,「朝倉氏」などを入れてみましょう。すると,(5d)の「[武田氏/武田勝頼]をほろぼした」と同様,Y氏の実態は,順に「物部守屋」,「蘇我入鹿」,「大内義隆」,「浅井長政」,「朝倉義景」といった(当時の)宗家の当主になります。たとえは良くないのですが,頭を切り落とせば,いかに強い蛇も死に絶えるように,「トップを滅ぼす(=の命を奪う)」ことが「トップが率いる氏族を滅ぼす(=の影響力を奪う)」ことと同義に捉える傾向が見て取ることができます。

 

 しかし,こうした例に倣えば,平家の当主である平宗盛の死をもって平氏は滅びたはずなのですが,捕虜になった宗盛の死は壇ノ浦の戦いから3か月ほど後になります。

 

 本来は,一合戦のことなので,(decisively) defeated the forces of …/ (decisively) won the battle of…に相当する表現を使って,勝敗の行方を事実として記述し,それを歴史的にどう評価するかは別の問題として書き分けるべきではなかったかと思います(これは,教科書や歴史書の記述のありかたの問題を提起するものです)。

 

  もう少しだけ先に歩みを進めると,「Y氏をほろぼす」というのは「量的」に考えることを許します。

 

(6) 家康という人は,どうも名家・名族コンプレックスというか,家柄のよい者に対する憧れが強かったらしく,『大坂の陣』と呼ばれる,慶長十九年(1614)の冬と元和元年(1615)の夏の陣で,豊臣家を完全に滅ぼした後,江戸に本格的な幕府機構を創ったとき,大名,旗本,御家人とは別に高家をこしらえた。(丹波元. 『まるかじり礼儀作法』ルビ省略)

 

 「完全に」というVP副詞と共起することは,「量的」な視点から見た場合,「ほろぼす」の対象が必ずしも ‘all Y’とはならないことを示します(つまり,‘all Y’と’ ‘not all Y’の二通りの可能性が考えられます)。

 

 この点に着目した場合に,英語で参考になるのは,次のChomskyによって最初に提起された例です(「平氏」というのは,英語ではthe Taira clan/ the Heike clanのように定名詞句で表されますが,‘all’と‘not all’の関係は,同様に当てはまるものと仮定します)。

 

(7) a. Beavers build dams.

     b. Dams are built by beavers.

 

  これをO’Brian (1970:267)流に考えると,(7a)のdamsは ‘all dams’と ‘not all dams’の二通りの解釈が可能ですが,(7b)のdamsは‘all dams’の解釈のみが可能です。

 

  「ビーバーがall damsを作る世界(W1)」では,(7a)と(7b)は同義になりますが,「ビーバーがnot all damsを作る世界(W2)」では,(7a)と(7b)は同義とは言えなくなります。現実の世界はW2なので,(7a)は真ですが,(7b)は偽であると言うことができます。

 

 因みに,能動文の目的語の位置では,‘all’と‘not all’の二通りの解釈を許すのに,受動文の主語の位置では‘all’のみの解釈を許すというのは,論理学では解決できない問題の一つです。

 

  「Y氏をほろぼした」を「量的」な視点から解釈した場合,同様に,(8a)は「平氏のallをほろぼした」と「平氏のnot allをほろぼした」の2つの解釈が可能なのに対して,(8b)は「平氏のallをほろぼした」の解釈のみが可能であると考えられます。

 

(8) a. 義経平氏をほろぼした。[=(4a)]

     b. 平氏義経にほろぼされた。[=(4b)]

 

 参考までに,平氏家系図を見てみましょう。

 

(9) 

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                                                 (ウィキペディア平清盛」の項に記載の系譜から引用4)

 

 高清が「六代」と呼ばれることを考慮すると,ここで言う「平氏」とは,忠盛の父である「平正盛」を祖とする伊勢平氏の一支族に属し,かつ,男性である(これを,「平氏a」とします)と考えられます(今日的な観点としては,女系を含めて考える,というか,大化の改新以後に定着した「長子/父子相続制」の視点を脇に置いて考える,ことも可能でしょう)。

 

 (8a)が「『平氏a』のnot allをほろぼした」を意味する結果,「例外を許す」と考えると,頼盛が「ほろびた」中に入らないことに説明がつきます。この場合,(8b)は「『平氏a』のallをほろぼした」を意味するので,(8a)と(8b)は同義ではない,ことになります。

 

 仮に,「平氏a」の範囲をさらに限定して,都落ちをして西走した人々(「平氏b」)と考えると,今度は,教盛の子の忠快の扱いが問題になります。既に仏門に入っていた忠快は壇ノ浦の戦いで捕虜になりますが,命を奪われるどころか,その後は鎌倉幕府から尊崇を受ける高僧として生涯を終わっています。この場合も,(8a)と(8b)は同義ではない,ことになります。

 「平氏a」の範囲をさらに限定して,清盛の子孫のみに限った場合(「平氏c」)に初めて,(8a)と(8b)は同義になります。

 「義経平氏aを滅ぼす世界(W1)」,「義経平氏bを滅ぼす世界(W2)」,「義経平氏cを滅ぼす世界(W3)」の3つの可能な世界で,(8a)は真になりますが,(8b)は,W3の世界でしか(8a)と同義にならないし,また,真にもならない,と考えられます。

 

 従って,(4a)と(4b)は「異なる」が正解であると考えることができます。

 

 言い方を換えれば,(4a)のような偶然的命題については,どのような意味で真と言えるのか「前提(premises)」を明示的に指定しない限り,同義性を判断することはできないのです。

 

  次回は「Alexandraの愛称はAlexである」を取り上げます。

 

1. [PDF] Untitled-リーディングスキルテスト

 https://www.s4e.jp/wysiwyg/file/download/1/22     (参照日:2018年11月25日)

2. (i) a. The cat chased the rat.

        b. The rat was chased by the cat.

 the chaserがthe catで,the chaseeがthe ratである点では,(ia)と(ib)は一致します。主題関係が一致することで「同義である」と考えるのであれば,(ia)と(ib)は「同義である」という言い方ができます。しかし,認知言語学では,(ia)と(ib)をsynonymousであるとは考えないのです(Vesterinen 2011:32)。(1)で見たリーディングスキルテストのサンプル問題は,認知言語学の真価が問われる問題と言うことができるでしょう。

3. 言語学系の人ならThe dinosaur is extinct.という言い方で済ます人もいるのですが,鳥類が恐竜の子孫である(可能性)を考慮して,自然科学系の人であれば,The dinosaurs are extinct.と表現するところです。日常言語で表される話し手の認識というのは,必ずしも科学的に厳密であるわけではありません。

4. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

   (参照日:2018年11月25日)

ポーランドに侵攻したのは,ドイツである

                    帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#3

                   -ポーランドに侵攻したのは,ドイツである-

 1. 自然言語の解釈では,情報を重視する

 「論理的に考える力」を評価する場合に注意しなければならないのは,日常の世界では,情報を重視するということです。

 

 例えば,「は」と「が」の間に対立が生じる場合,この違いに関係するのは,「論理」ではなく「情報」です。

 

 今回は,「ポーランドに侵攻したのは,ドイツである」という「答え」が果たして正しいのかどうか考えてみたいと思います。

 

 (1)

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(新井紀子. 2016.「AIが大学入試を突破する時代に求められる人材育成 資料3-1」1)

 

 (1)の本文から「枝葉」の部分を取り除いて,語句に若干修正を加えると,(1)の「骨格」はおおむね(2)のように表すことができます。

 

(2) オーストリアチェコスロバキアの次に,ドイツはポーランドに侵攻した。

 

 書き手自身は,ドイツをトピックに選び,「ドイツはyに侵攻した」というopen命題に現れる変項yの取り得る値が,オーストリアチェコスロバキアポーランドの3つであり,かつ,ポーランドが時間的な順序で並べると,3番目に当たると述べています。

 

 「読解力」を診断するといった場合,基本的なレベルであれば「書き手が何を言っているのか?」に視点を置いて,伝えようとしている情報が正しく理解できているか診断することを指すと考えるのが妥当ではないでしょうか?2

 

 ところが,この問題では「ポーランドに侵攻したのは,y」という別のopen命題に現れる変項yの取る値を尋ねています。これは,出題者の視点から「書き手の伝えようとしている内容」を再解釈する問題となっています。3

 

 このリーディングテストでは,受験者は,「書き手が何を言っているのか?」という課題に加えて,「出題者はどう読んだのか?」という課題にも対処しなければならなくなっているのです。

 

 現実には,出題者というのは,自分が取り上げた文章を正しく理解できているとは限らないのです。残念なことに,読解問題の中には,「出題者が正解と考える選択肢を選ぶ問題」があるのです。隠れた出題ミスの大半はおそらく「出題者の誤読」にあると思われます。

 

 今回の事例で言えば,原文で「トピック」であったものを「焦点」として抽出させるという実に無謀なことが行われています。「情報」という視点から見ると,まさに右と左を,上と下をひっくり返すような逆さまな現象が起きているのです。

 

(3) a. ドイツポーランドに侵攻した。

     b. ドイツはyに侵攻した+「y=ポーランド

(4) a. ポーランドに侵攻したのは,ドイツである (=ドイツポーランドに侵攻した)。

  b.  xがポーランドに侵攻した+「x=ドイツ」

 

  「情報」という視点から言えば,(3a)はyという変項に入る値がポーランドであると,(4a)はxという変項に入る値がドイツであると,主張しています。

 

 ここで,真偽に関係するのは「主張している部分」であるという考え方に立つと,(3a)は「y=ポーランド」が成り立つ場合に真となり,(4a)は「x=ドイツ」が成り立つ場合に真となると言えます。

 

2.「情報」の視点から書かれた文章に,なぜか突然「主題関係」を持ち込む出題者

 ところが,です。

 ところが,「論理」の世界から見ると,「ドイツはyに侵攻した」も「xがポーランドに侵攻した」も,「侵攻した(ドイツ,ポーランド)」という命題に包摂されます。4

 

 「論理」の世界では,個々の特定の文脈(世界)を考慮しないので,「命題が真である」といった場合,命題が真になるすべての世界を含みます。この視点から見ると,(3a)も(4a)も,ドイツがagentで,ポーランドがpatientであるという点で,主題関係が一致するので,「意味が同じである」という言い方も可能になります。

 

 とすると,「論理」の世界から眺めれば,「ポーランドに侵攻したのは,(     )である」の(     )に「ドイツ」を入れて正解だと考えてもよいように…見えます。

 

 果たして,そうでしょうか? 何か見落としていることはないでしょうか?

 

3. 事実関係を確認しない出題者

 では,次の(5a)を読んで,(5b)の空所に入る選択肢を(5c)から選べと言われたら,どう対応しますか?

 

(5) a. オーストリア,次いでチェコスロバキア西部を併合したドイツは,それまで対立していたソ連独ソ不可侵条約を結んだうえで,1939年9月,ポーランドに侵攻した。同じ月に,ソ連もまたポーランドに侵攻した。

     b. ポーランドに侵攻したのは,(    )である。

  c. A オーストリア    B チェコスロバキア    Cドイツ    Dソ連

 

  「ポーランドに侵攻したのは,(    )である」は,英語でいう分裂文に相当し,機能的には,(    )に入る国をすべて残らず列挙することが求められます。5

 

 史実を確認すると,例えば,E. G. Windchy, Twelve American Warsによれば,In September of 1939, Germany and the Soviet Union invaded Poland, reclaiming lost territories.が事実として述べられています。

 

 すると,(1)の原文で関係する命題は(6a)ですが,空所補充文の「ポーランドに侵攻したのは,(    )である」と関係する命題は(6b)ということになるので,書き手と出題者とでは扱っている命題が異なっているということになります。真理条件が異なるので,もはや,意味が同じであるとは論理的にも言えなくなるのです。

 

(6) a. 侵攻した(ドイツ,ポーランド)

  b. 侵攻した(ドイツ&ソ連ポーランド)

 

 従って,(1)については「正解がない」というのが正解,ということになります。

 

 出題ポイントが果たして正解として成り立つのかどうか,その精査には緻密さが出題者に求められますが,その際の作業の一つに,素材を複数のソースと照合することが含まれます。この場合で言えば,歴史的記述がどうなっているのか,他の文献にあたることが当然の責務となるのです。

 

4. 首尾一貫しない出題者

  否定文を考慮する場合には,「論理の世界」では処理できない壁にぶつかります。

 

  命題pの否定は¬pですが,こと「論理の世界」では,pが偽になるすべての世界を含んでいて,どのような世界で偽になるかを問題にしません。

 

 指定文では「主題関係」を持ち出した出題者も,否定文が絡んでくると,どのような世界で否定文が成立するのか考えざるを得ない状況に追い込まれます。

 

(7) この方法を昨年次のように改良しました。世界史のセンター入試の問題は,正誤判定問題が七割から八割出ます。6 正誤判定問題に対しては,例えば「カール大帝マジャール人を攻撃した」,これは誤った文ですが,どうやってそれが分かるかというと,「何々はマジャール人を攻撃した」という文と「マジャール人は何々を攻撃した」というクイズ問題を自動生成しまして,それで先ほどのような方法で解きにいきます。「カール大帝は“何々”を攻撃した」ところには「アヴァール人」が入りやすいことが分かります。そのことから,マジャール人は間違いだと認識をいたしまして,100点中76点を獲得しますと,今の高校3年生に比べてはるかに高い能力を示しまして,偏差値66.5を達成することができております。

(「教育振興基本計画部会(第8期~)(第5回)議事録」7 発言者は新井紀子氏。)

 

 (1)で「主題関係」を読解の主軸に据えたのであれば,当然,「カール大帝マジャール人を攻撃した」が真か偽かを判断する場合にも,主題関係に視点を置いて考えることが期待されます。つまり,patientだけでなくagentの「xはマジャール人を攻撃した」にも目を向けてxの値を検討すると,「x=オットー1世」となることから,「カール大帝マジャール人を攻撃した」は間違いだと認識したという言い方もできるはずです。

 

 しかし,実際には,「カール大帝はyを攻撃した」のyの値が「アヴァール人」である確率が統計的に高いことを根拠に間違いだと認識したと述べているのです。

 

 これこそまさに日常言語の世界における判断の仕方なのです。

 

 「カール大帝マジャール人を攻撃した」というのは,Payneをアレンジして言えば,I say of Charles the Great that it is true that he attacked the Magyars.となります。これが偽の場合は,I say of Charles the Great that it is not true that he attacked the Magyars.となります。

 

 何を言いたいのかというと,「カール大帝」がトピックの場合,「カール大帝」は否定の作用域に入らないということです。日常言語の世界では,主語がトピックの場合,述部を否定すれば,それで文を否定したことと同じになる場合があるのです。このとき,肯定文が命題として偽の場合,述部を否定した文が命題としては真になるのです。

 

 (3a)に戻ると,これが仮に真か偽か分からない場合,述部の部分だけを確かめればよいのです。それが日常言語の考え方です。

 

 否定文について,トピックを考慮するのであれば,(1)の問題でも,同様に,「トピック」を考慮すべきなのです。

 

 言い方を換えれば,(1)の文章の読解において「トピック」と「焦点」を同一に扱って考えたことが,そもそもの誤りなのです。

 

 と,本来は,今日の話はここでおしまいなのですが,

 

疑問に思うのは,(1)の問題が実際に成立するかどうかについては,日本語学・日本語教育学の領域の研究者が助言できる立場にあったと思うのですが,どうして放置されたままになっていたのか?ということです。

 

 しかし,それ以上に疑問なのは,(1)が教育振興基本計画部会でのヒアリングの一部であることと関係します。

 

 この部会は,2030年以降の教育の内容や方向性について基本案を作成する任務を負う点で,日本の若い国民と日本という国家の将来の命運に大きな影響を与える可能性のある部会です。当然,傑出して優秀な人材が抜擢されていることだと思うのですが,この人々が(1)の問題に何の疑問も感じていないようなことが不思議であると同時に恐怖なのです。

 

 Chomskyに従って考えれば,日本語の(大人の)母語話者であれば,誰でも「ドイツポーランドに侵攻した」と「ポーランドに侵攻したのは,ドイツである (=ドイツポーランドに侵攻した)」がそれぞれどんな意味を表すのか理解できます。すると,(共通点だけでなく)相違点についても理解できていると考えられます。加えて,程度の差はあっても,百科事典的知識も備えています。日本語を理解する力と知識において,標準的な私たちと比べて傑出していると想定される部会の委員が誰一人として,この問題のおかしさに気づかないとしたら,私たちの子供の未来や日本の将来を託して大丈夫なのか?という懸念が払しょくできない状態でいます。

 

 次回は「平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた」を取り上げます。 

 

〔注〕

1.http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo14/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2016/07/04/1373986_3_1.pdf

(参照日:2018年11月10日)

2. 基本的なレベルということであれば,設問の立て方は,identificationalになります。というか,読解問題というのは,基本的に,identificationalに情報を整理する方向で作題されます。ところが,「yなのは,x」は,通例,xを焦点とするspecificationalな文です。

 例えば,Germany [invaded [POLAND]].は,学校英語のレベルでは,It was POLAND that Germany invaded.と「意味が同じ」であると指導されると思いますが,両者の解釈は,厳密には同じではありません。simple sentencesで記述された表現を,分裂文を使って再解釈する場合には,注意しなければならないことがあるのですが,この点については,機会を改めて考えてみたいと思います。

3. もちろん,これ自体は決して悪いことだとは考えていません。読み手が自分で視点を選び,能動的に読む作業に参加することが,新しい発見や探求,あるいは新たな価値の創造へとつながるからです。

 例えば,「ドイツは」と,ドイツがトピックでunderstoodなので,空所補充文では省略されたと考えると,「ポーランドに侵攻したのは,y」は,実際には「『ドイツがポーランドに侵攻した』のは,y」と解釈することができます。

 この場合,yには(少なくとも)3つの値が入る可能性がありますが,この中で,最も興味深いのは,「ソ連独ソ不可侵条約を結んだうえで」の「うえで」をどのように解釈してyに入れるかです。

 一つの解釈として,これはポーランド侵攻にとって必要条件であるが,同時に十分条件(を構成する必要条件の一つで,しかも,crucialでかつlastな必要条件)であると考えることができます。この読み方が正しいかどうか,さらに大きなコンテクストで検証してみようという新たな探求へと誘うきっかとなります。また,語法的に見れば,「~したうえで」の意味の定義に,必要条件・十分条件が関与するという一般化が可能なのかどうか検証してみようという探求へと誘うきっかけともなります。

4. ここでは,単純化のため,時制を付け加えた状態で考えることにします。

5. 少なくとも,英語に関して言えば,Horn (1981)は,ここで議論している焦点要素のexhaustivenessには影響しません。影響しないものに言及するというのも不思議な話ですが,「参考文献に~がないのですが」という指摘を受けた経験のある人がいるかもしれません。しかも,「論点が理解できていれば,そのような指摘をする可能性が存在するの?」という状況で苦い経験をした人がいるのではないでしょうか。不毛な混乱を避ける意味で,Horn (1981)は織り込み済み,と断っておく次第なのです。

6.「世界史のセンター入試」は,知識詰込み主義教育における出題方式の典型であると,新井氏は述べているような印象を受けます。「考える力」を「世界史のセンター入試」でどう診断する方向に向かうのかは興味深い問題ですが,その前に考える必要があるのは,世界史をどう指導するかではないかと思います。

7. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo14/gijiroku/1383576.htm (参照日: 2018年11月10日)

帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#2

1. 「第一回大学生数学基本調査」の「問1-2」に着目した2つの理由

1.1. 「論理的に考える力」を正しく診断しているのだろうか?

 

(1) 帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です。(All non-P are S.)

 

 日本数学会の出題(問1-2)で不思議に思うのは,対偶を取って考える「必然性」がどこにあるのか説明がないことです(ちなみに,定言命題でcontrapositiveを考えると,「ヘンペルのカラス」のように,自然言語の直観に反する結論を導くことがあります)。

 

 (1)は,見かけ上,定言命題の体裁をとっていますが,実際には,集合の問題です。non-P の集合が“closed”になるのがどのような場合なのか,集合S の「要素の数」との関係で考える問題です。つまり,Sに(そしてSにのみ)視点を置いて考えればよい問題です。それにもかかわらず,non-S (文脈上,2項対立関係にある「男の子」)の集合にも視点を置いて考えなければならないと判断した根拠がどこにあるのか不思議に思います。

 

 素材の特性から見て,本質的に出題すべきポイントと直接関連しない領域について尋ねているように見えます。本当に考えるべきところで考えることをしないで,表面的な部分を見て,手続きに従った「計算」をさせているのに過ぎないように見えるのです。つまるところ,問1-2は,出題者としての適格性,さらに言えば,教師としての適格性に疑念を感じさせる問題なのです。

 

 根本的なことで言えば,「論理的に考える力」を育むのに,果たしてこれでいいのだろうか? ...と考えさせる出題なのです。言い方を換えれば,これからの日本を,世界を生きていく人々を育てるのに,本当は何をしなければならないのか?という課題を提起している,と言えます。

 

1.2. RSTのサンプル問題は,日本数学会の出題(問1-2)と共通の課題を内包する

 日本数学会の問1-2の抱える問題点と,同様の問題点を抱えていると言えるのが,リーディングスキルテスト(RST)です(社会的影響力の大きさという点でも,両者は互角と考えられます)。このテストは,「論理的な読解と推論の力」の重要性に対する認識から開発されたものですが,その一番のきっかけとなっているのが日本数学会の出題した問1-2にあるのです(「予稿集」注8を参照のこと)。

  

 RSTの基本思想を反映している(はず)のサンプル問題を見ると,問1-2と同様のミスが認められます(開発の中心となって努力された方の志は賞賛に値するものだと思います。むしろ,言語系の諸科学の研究者が,教育の最前線において「論理的な読解と推論の力」の育成を支援するように,研究成果を還元する姿勢がこれまで見られなかったことこそが問われるべきだったと思います)。

 

 最近の風潮としては,どう学力を身に着けさせるか工夫することに努力が傾注されるのではなく,とにかくテストさえ義務づければ,学力がついてくるはずだという,本末転倒な認識に基づく状況が蔓延している印象があります。

 

  しかも,そのテストというのが,正しく学力を診断できているかどうか,考えることもなくです。

 

 新たなテストに対応するために,誤った理解を定着させることになったり,さらに言えば,本来,学習者が持っていたはずの潜在的可能性が将来的に奪われたりはしないかという懸念を強く感じるのです。

 

 次回以降,何回かに分けて,RSTの理論的基盤となっているサンプル問題の「出題ミス」について考えてみたいと思います。今日は,最後に,RSTのサンプル問題の中でも,誰にでもわかるタイプの「出題ミス」を取り上げます。

 

(2) 

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                                                                               (朝日新聞デジタル 2017年11月7日)

 

 

 「アメリカ合衆国以外の出身の選手」という表現に着目すると,これは,「メジャーリーグの選手(100%)」という全体集合を「アメリカ合衆国出身の選手(X%)」と「アメリカ合衆国以外の出身の選手(28%)」という2つの部分集合に分けて考えていることを示しています。従って,「アメリカ合衆国の出身の選手」の全体に占める割合は,「メジャーリーグの選手(100%)」-「アメリカ合衆国以外の出身の選手(28%)」=72%となります。

 

 「メジャーリーグの選手」については,実数が提示されていないので%だけで考えればよい問題となりますので,この72%に着目して,②が正解となる…ように見えます。

 

 しかし,ここで注意しなければならないのが「適当なものをすべて」という指示です。

 

 「すべて」というのは「正解が少なくとも一つある」ということではありません。現代の論理学では,allの意味を考える時に‘there are some’という存在の前提を考慮しないからです(論理学で言うsomeとは,可算名詞との関係においては,'at least one'の意味で考えることを指します)。

 

 論理的に言えば,この場合の「すべて」というのは‘all if any’を意味します。if anyというのは,厄介な表現ですが,その意味は,‘there may be none’です。つまり,「正解が一つもない」場合を含むのです。

 

 そこで,②が「本当に正解になるのか?」「検算」するというミッションが新たに発生します。

 

 「ドミニカ共和国出身の選手」は,円グラフで見ると,「アメリカ合衆国以外の出身の選手(28.0%)」の中の9.8%を占めているので,「アメリカ合衆国以外の出身の選手」に占める割合については,9.8÷28.0×100を計算すればよいのですが,その結果はというと…35.0です。34.2でも36.4でも35.8でもなく,ちょうど 35になります。

 

  about 35ではなくexactly 35になるのです。

 

 「下記の文」では「およそ35%」と指定していますが,円グラフでは「ちょうど35%」となっているので,「下記の文」と一致する「円グラフ」は存在しない,ということになります(念のためですが,「1個95円のパンを2個買って,1本65円のジュースを1本買ったら(税抜きで)いくらになりますか?」と聞かれて「およそ255円です」と答えたら,それは正解になるでしょうか?)。

 

 つまりは,実際のところ,②は正答ではない,のです(2020年以降のセンター後継試験では,「適当なものをすべて」選ぶタイプの出題もあるようなのですが,選択問題形式を複雑化することが正しい学力評価につながるのかという問いとも関係してきそうです)。

 

 問題の基本設計において,「緻密さの要件」を満たしていないということは,出題者としての適格性の初歩的要件を満たしていない,としか言いようがないように思います。

 

追記:

 日本数学会の問1-2に戻ると,All non-P are S.でも,同様に,allに存在の前提がないと現代論理学では考えます。仮に,これを条件文で表すことができるとすると,For all x, if x is a non-P, then x is an S.となりますが,allに存在の前提がないので,論理的には,being a non-Pというpropertyを持つxが存在しない場合が考えられます。問題文では,There are non-P.という指定がないので,前件が偽となる場合が考えられます。

 従って,All non-P are S.が真である場合,問1-2では,「帽子をかぶっていない子供」が一人もいない場合についても考慮する必要がでてくることになります。

帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です

 「日本科学哲学会第51回年次大会」の発表会場で配布した予稿集の電子媒体を掲載します(注1)。最初に,発表の場にご参加いただいた方々に,この場を借りて心から御礼を申し上げます。

 「帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です。」

 onlyの語法を考えているときに偶然に出会ったものですが,これは,考えれば考えるほど,実に面白い文です。個人的な印象で言うと,RussellのThe king of France is bald.と同じくらい思索をくすぐる文です。

 予稿集の切り口を絞って,内容を発展させ,査読付きの活字論文に仕上げた段階で,私の責務は終了と考えているのですが,今回の場合,どこに応募するのがよいのか見当がつかない状態にあることから,この場を借りて,読者にご教示をいただきたく,予稿集を公開する次第です。

 単純に,「教育」と「研究」という2つのカテゴリで考えてみます。

 前者であれば(いろいろと波乱と混沌を潜在的に引き起こす可能性がある,今回のAll non-P are S.をいったん考慮の枠外に退避させて),論理学系の標準テキストであれば,どれでも基本的に扱っていることが期待できるAll P are S.で考えることに方向を転換すると,これはOnly S are P.に還元できます。この場合,自然言語の用法では,「only S=all Sは成立しない」と確実に言えるのですが,予稿集の注21で言及した通り,言語のプロでも間違えている可能性があるほど簡単な問題ではないのです。

 他方,後者であれば,日本数学会の作成した問題は,本質的には「真理条件」に関係する問題ですが,自然言語の意味論の記述に関して,真理条件の「立つべき位置」について新しく論じることが,可能な論点の一つとなります(立論の可能性は,たぶん,片手では足りないのではないかと理解しています)。

 前書きが長くなり,恐縮です。

 査読論文に応募するときと少なくとも同様の労力と,それ以上の分かりやすさを心がけて,予稿集は記述してします(とはいえ,時間不足で,2/3程度がバタバタと進行し,詰めの甘さがあるのは,予稿集を見れば明瞭なのですが,それもすべて筆者の力量を示す指標です)。

  次回は,「第一回大学生数学基本調査」の「問1-2」に着目した理由について2つの視点から述べてみたいと思います。

 

注1:

  手作りの予稿集は,見開き2ページの構成で,左側が本文で,右側が注となっています。こちらの電子媒体のバージョンでは,両者は別々に表示されます。

 今回の電子媒体のバージョンでは,本文について, 4個所,誤字脱字を修正しています。また,最後の(28)と(29)について,説明文を追加しています。

予稿集本文とその注: