現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

誰もが,誰かをねたんでいる

                                       誰もが,誰かをねたんでいる

1.はじめに
    今日は,「誰もが,誰かをねたんでいる」という文を取り上げます。本格的な議論は,学術研究の領域で行いたいと思っています。発表に応募する際の制約から,この場では,ごく基本的な事柄の,さらにその一部についてのみ簡単に触れてみたいと思います。

 

(1) 誰もが,誰かをねたんでいる。


 (1)の文は,新井紀子氏が新著『AIに負けない子どもを育てる』の中で議論しているものですが,その中核となる問題について,この新著を取り上げて紹介している印南敦史氏の記事で見ておきましょう。

 

(2)

f:id:t70646:20191207160510p:plain

(印南敦史. 「小学生時に「読解力」の決定的な差が生じる理由」 東洋経済Online. 2019年10月29日)

2. 日本語を理解しない数学者
 まず,驚く(というか呆れる)のは,(1)の「受け身形」が(3)だと真面目に考えているらしいことです。

 

(3) 誰もが,誰かからねたまれている。

 

 この考え方に従うと,(4a)の「受け身形」は(4b)ということになります(英語で言うと,The corresponding passive sentence of (4a) MUST be (4b).となります)。

 

(4) a. 太郎がボールをけった。
     b. *太郎がボールからけられた。

 

    皮肉なことに,ここでは,『AIに負けない子どもを育てる』の著者自身が,AI読みに陥っています。ミイラ取りがいとも簡単にミイラになってしまうという事実は,(1)が実際には,「誰もが理解できるはずの文」ではないことを示しています(さらに深刻なことに,「日本の数学教育では,計算ができるようになっても,文章題はできない」という問題を念頭に置くと,その主因は,日本語を理解しない数学者にあるのではないかという疑念を生じさせます)。


    ここで,「ねたむ」という動詞をenvyで考えてみると,x envies y.とy is envied by x.は,論理学では,E (x, y)で表します(「ねたむ」をEという記号で表すと考えます)。つまり,論理学ではvoice上の対立を考慮しない(という問題点がある)のです。


 論理学では,xとyを変項として扱い,数量詞のallやsomeはこの変項を束縛するものとして扱います。allを∀,someを∃という記号で表すと,(1)の文は,前者がxを,後者がyを束縛するので,∀x,∃yとなります。


 一つの文に複数の数量詞が現れる場合,相互の力関係が問題になりますが,∀x>∃yの場合,∀x∃y E (x, y)と,逆に,∀x<∃yの場合には,∃y∀x E(x, y)と書き表されます。


    読み方は,∀x∃y E (x, y)の場合,For all x, there exists y such that x envies y., ∃y∀x E(x, y)の場合は,There exists y such that for all x, x envies y.となります。


 (1)の受け身文は,∀xと∃yの力関係が逆転する∃y∀x E(x, y)を表します-この点から見ると,(3)は∀y∃x E (x, y)であり,変項yを束縛する数量詞がallになります。1


 ∀x∃y E (x, y)と∃y∀x E(x, y)を比べると,前者が一般的な状況を表すのに対して,後者は,そのうちの特定の状況を表します。可能な世界という点から言えば,∀x∃y E (x, y)の表す世界が,仮に,全部でw1, w2, w3, … wnのn個あるとすると,∃y∀x E(x, y)は,このうちの「少なくとも一つの世界」に対応します。簡単に言えば,∃y∀x E(x, y)は,∀x∃y E (x, y)が表す世界の集合の内部に現れても,外部に現れることはないのです。


   ところが,新井氏が「誰もが,誰かをねたんでいる図」として挙げているのが(5)なのです(例によって,(2)と同様,印南氏の記事から該当の図を引用)。

 

(5)

f:id:t70646:20191207161631p:plain

(印南敦史. 「小学生時に「読解力」の決定的な差が生じる理由」 東洋経済Online. 2019年10月29日)

 

    (5)には決定的な誤りがあります。

 

    実は,∀x∃y E (x, y)という記号列自体は,xとyが同一の集合の要素となる(環境A)のか,異なる集合の要素となる(環境B)のか指定していません。

 

(6) a. 誰もが誰かを愛している。
     b. 誰もが何か趣味をもっている。

 

    (6)を例に取ると,(6a)は,環境Aと環境Bの両方を許容しますが,(6b)の場合は,環境Bのみを許容します。


 「ねたむ」というのは,自分以外の他者に向けられる感情のことを指すので,タイプとしては,(6b)と同じになります。つまり,環境Bで考えることになります。


 しかし,(5)に引用している図は,出題者(というか解説者)は,xとyが同一の集合の要素となる「環境A」で(1)の文を理解していることを示しています。これは,∃y∀x E(x, y)が,∀x∃y E (x, y)の表す集合の外部に現れると主張することに等しくなります。


 どうやら,数学が分かること自体は,論理が分かることを保証しないようです。


 以上で,準備体操を終わることにして,この先の本格的な議論はどこかで続けたいと思います。


 自然言語の枠組みで論理を考える場合,両者の関係を見極めておく必要がありますが,現実には,この点の理解が決定的に不足しています。以下で,簡単に補足します。

 

3. 自然言語と論理(学)の関係
3.1. 自然言語における「文の意味」は「論理的な意味」とイコールとは限ら  

      ない


 自然言語の世界で「文の意味」を考える場合には,どのような状況で発話されたのか情報として提示されることが必要となります。この場合に,しばしば見落とされがちなのが,何が「論理的な意味」で,何が「論理的な意味でない」のかに関わる区別です。


    「論理的な意味」というのは,「意味論的な意味」と言ってもいいのですが,(少なくともある程度は)「数学的な意味」と言った方が,理解が早いのではないでしょうか。例えば,x is no more than 5. の「論理的・数学的な意味」は,x ≯ 5, すなわち,x ≤ 5を意味します。しかし,現在の英語教育では,この点の理解が欠落しています。

 

    言語学と論理学の関係で言えば,例えば,モダリティの捉え方が決定的に異なります。この結果,論理学が得意とする(はずの)モダリティ領域では,言語学では誤った理解をすることがあります。


(7) 日本語の「なければならない」や「あり得ない」も論理的必然性や論理的可能性を 

     表すことができる。
    (90) a. x+5=10ならば,xは5でなければならない。
                                                                                            (澤田治美. 『モダリティ』)

 

    英語で考えると分かるのですが,x must be 5のmustは「~なければならない」ではありません。この間違いを理解するためには論理学の知識が必要です(この議論も,どこかで再開したいと思います)。


    高等学校の新学習指導要領では,英語に「論理・表現」という科目が新しく導入されています。「論理」という言葉が入っていますが,自然言語と論理の関係をよく整理しておかないと,いたずらに混乱するのではないかと危惧されます。


 例えば,(8)を見てみましょう

 

(8) 

f:id:t70646:20191207162102p:plain

(明日誠一. 2018.「帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です。-事例研究:人は誤りから何を学ぶことができるのか?-」注21)

 

    私見では,(8)に引用する2018年度京都大学前期英語IIIには,論理的に見て,(少なくとも)3つの問題点があります。ここでは,「主張」に関わる点について言及します。


 出題者の意図を「忖度」すると,受験生は(9a)に「反論」することが期待されていると考えられます。つまり,(9b)が真であると主張できる根拠や理由を提示することが期待されていると考えられます。

 

(9) a. No foreigners appreciate Japanese food.
     b. Some foreigners appreciate Japanese food.

 

 しかし,こと論理に限って言えば,当該の問題に関して「反論」が求められているとは言えないのです。これは,「…だと言った人」自身は,(9a)を主張していないからです。

(10) A: 海外からの観光客に和食が人気なんだって。
       B: 文化が違うのだから味がわかるのか疑問だな。
       C: それって,味がわからないってこと?

 

    「味が分かるのか疑問だ」が,仮に「味がわからない」と「同義」であるならば,Cのような発言を続けることはできません。

 

(11) A: 海外からの観光客に和食が人気なんだって。
       B’: 文化が違うのだから味がわからないよ。
       C’: *それって,味がわからないってこと?

 

    「味が分かるのか疑問だ」と「味がわからない」が「同義」でないことは,(10)の後に,(12a)だけでなく,(12b)を続けることができることからも確かめることができます。

 

(12) a. B: そうだよ。和食の味は日本人にしか分からないよ。
       b. B: 違うよ。「わかるのか疑問だ」と言っただけで,「わからない」とまでは言っ

                てないよ。

 

 つまり,(9a)が述べる内容を,(12a)に見るように,話し手が肯定することも,また,(12b)に見るように,話し手が否定することもできることは,(9a)が,話し手の主張ではなく,話し手の「会話の含意」であることを示します。


 論理において,真か偽かの対象になるのは,「会話の含意」ではなく「主張」です。Bが「(外国人には和食の)味がわからない」と述べていない以上,(9a)が誤りだと「反論」することはできないのです。


    京大の問題は,日本で育った私たちにとって「論理的に考え,表現する」ことがどれほど容易でないのかを,あらためて私たちに教えてくれる『良問』です。

 

3.2. 論理学ではvoice上の対立を考慮しない(という問題点がある)
 新学習指導要領には「論理」という言葉が出てきますが,「【外国語編 英語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 」をざっと見たところの印象では,文科省の考える「論理」というのは,cohesionという概念にほぼ収束するのではないかと思われます。


    では,

 

(13)の後に(14),あるいは,(15)を続ける場合,a文とb文は,どちらも同じ程度に自然につながるでしょうか?

 

(13) The Prime Minister stepped off the plane.
(14) a. She was immediately surrounded by journalists.
       b. Journalists immediately surrounded her.
(15) a. She immediately greeted all the journalists.
       b. All the journalists were immediately greeted by her.
                                                  (A. Downing and P. Locke, English Grammar)

 

    主題関係から言えば,(14a)と(14b),(15a)と(15b)は「同義」ですが,(13)の後に続けた場合には,(14a),(15a)の方が,それぞれ,(14b),(15b)より自然なのです。


 自然言語では,何かをトピックに選んだら,そこに視点を置いて,新しい情報を提示することが自然な「論理的構成や展開」となるからです。


 論理学で言う「論理」,例えば,x envies y.もy is envied by x.もどちらもE (x, y)を表すという考え方に単純に従うと,自然な英語で表現することの妨げとなるのです。


 「論理的に考え,表現する」ことが重要である点に異論をさしはさむ人はいないと思いますが,それが具体的に何を意味するのか,自然言語のもつ特性と合わせて考えることがないと,結果的に,非論理的な思考や不自然な言語表現を固着化する悲劇を生むことになりかねません。


 次回は,2018年の試行テスト国語の第一問で出題された「指差しが魔法のような力を発揮する」を取り上げます。

 


1. nameから整理すると,(1)と(3)の違いは,作用域の違いではなく,主題関係の違いで説明ができます。(i)を述語論理風に表すと(ii)になります。
(i) John envies and is envied by Mary.
(ii) E (John, Mary) & E (Mary, John)

    Johnの代わりに,John, Bill and Tom, つまり,everyoneを,Maryの代わりにsomeoneを入れれば,
(iii) Everyone envies and is envied by someone.
となります。
    ということは,E (Mary, John)から出発して(iii)を記号化すると,まず,xとyの位置を入れ替え,E (y, x)として,次に,yを束縛する∃,xを束縛する∀を加え,最後に,作用域が∀x>∃yになるように設定すると,∀x∃y (y, x)となります。
 以上を整理すると,(1)は∀x∃y E (x, y),(3)は∀x∃y (y, x)となります。
 両者は,作用域が∀x>∃yとなる点が共通ですが,主題関係が違うので同義ではない,ということになります。つまり,John loves Mary.とMary loves John.の違いと同じタイプの違いということになります。