現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

平氏は義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた

                    帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#4

                   -平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた-

1. 受動変形はmeaning-preservingではない

 「能動文と受動文は『同義文』である」という考え方はとうの昔に否定されています。かれこれ50年近くになるでしょうか。

 

 生成文法(やHallidayの機能文法)の研究者であれば,この誤りを容易に正すことができる立場にあったにもかかわらず,なぜ看過したのか疑問に思っています。

 

  (1)の問題について,みなさんはどうお考えになるでしょうか。

 

(1) 

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 (一般社団法人 教育のための科学研究所. 「『リーディングスキルテスト』とは」1)

 

 2. 可能な世界から同義関係を眺めてみると

 可能な世界という視点から考えると,「異なる」場合があると考えられます。先入観を捨てるというのは難しいことですが,いったん現実世界の知識を脇に置いて(2a)と(2b)の可能な解釈を考えてみましょう。

 

(2) a. 義経平氏を追いつめ,ついに壇ノ浦でほろぼした。

  b. 平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた。

 

  「優勢な解釈」という点では,(2a)と(2b)は異なる場合があると考えられます。

 

 「追いつめる」と言った場合,「包囲網を狭める」という意味で解釈できますが,「追いつめられる」の場合には,「勢力が段階的に削がれる」という意味で解釈する可能性が考えられます。前者に立てば,(2a)は「義経平氏の包囲網を狭め,最終的に,壇ノ浦で平氏を一網打尽にした」と解釈できますが,後者に立てば,(2b)は「義経平氏を一人一人打ち取っていき,壇ノ浦で最後の一人を打ち取った(結果,平氏は全滅した)」と解釈できる可能性が考えられます。

 

 同義性を重文のレベルで考えるというのは斬新な試みだと思うのですが,考慮しなければならないパラメータが多いので,もう少し単純化してみたいと思います。

 

(3) a. …, 平氏はついに壇ノ浦でほろぼされた。

   b. …, ついに平氏壇ノ浦でほろぼされた。

      c. …, ついに壇ノ浦で平氏はほろぼされた。

 

 (2b)の文の後半で「平氏は」を補うと(3)のように3つの可能性があります。問題なのは(3c)です。「壇ノ浦で」をS adverb(ial)と考えると,「平氏」の解釈がexistentialになる可能性があるように思うのですが,現段階ではpendingにしておきたいと思います。

 

 単純化して,(4)で議論を進めることにします。認知言語学であれば,(4a)と(4b)はsynonymousではないと主張すると思いますが,trajectorの問題はここでは扱わないことにします。2

 

(4) a. 義経平氏をほろぼした。

     b. 平氏義経にほろぼされた。

 

  (4a)を一般化すると「XはYをほろぼした」となります。ここで何が問題かというと「ほろぼした」の意味がconstantにならないことです。

 

 純粋に論理学の枠組みで同義性を扱うことができるのであれば,XとYの組み合わせにかかわらず,「ほろぼした」の意味はconstantになるはずですが,実際には,XとYの組み合わせによって,「ほろぼした」の意味が変化します(ここでは,「論理」に視点を置いているので,(5)における「は」と「が」の違いについては考慮しないことにします)。

 

(5) a. [地球に衝突した巨大隕石]が[恐竜]をほろぼした。

     b. [現生人類]が[ネアンデルタール人]をほろぼした。

     c. [高句麗]が[百済]をほろぼした。

     d.[信長]は[武田氏/武田勝頼]をほろぼした。

 

 「Yをほろぼす」を,‘cause Y to ほろびる’と考えてみましょう。すると,「ほろびる」というのはkind readingを選択する動詞なので,「Yをほろぼす」と言ったときには,(5a)に見るように,恐竜という「種の絶滅」の意味で使うのが典型的なはずなのです。3

 

 ところが,人間と関係する場合には,意味が変わってきます。

 ネアンデルタール人という種は絶滅したのかもしれないのですが「ネアンデルタール人の血が現生人類に流れている」という言い方は可能です。また,「百済は一度ほろんだが,熊津を新たな都として再興した」という言い方も可能です。甲斐武田氏は13代で一度ほろびますが,その後再興して「20代の武田勝頼で再びほろんだ」という言い方も可能です。

  

 このように「ほろぼす」というのは多様な意味で使われますが,個々の意味は,特定の文脈を考慮することで導き出されます。しかし,形式論理学では,こうした文脈を一切考慮しないので,「ほろぼす」と「ほろばされる」の同義性を論理学の観点から考えるのには不適切なのです(つまり,出題として不適切なのです)。

 

 さらに言えば,「XはYをほろぼした」という設定にして,Y氏に「物部氏」,「蘇我氏」,時代を下って戦国期の「大内氏」,髑髏杯でも知られる「浅井氏」,「朝倉氏」などを入れてみましょう。すると,(5d)の「[武田氏/武田勝頼]をほろぼした」と同様,Y氏の実態は,順に「物部守屋」,「蘇我入鹿」,「大内義隆」,「浅井長政」,「朝倉義景」といった(当時の)宗家の当主になります。たとえは良くないのですが,頭を切り落とせば,いかに強い蛇も死に絶えるように,「トップを滅ぼす(=の命を奪う)」ことが「トップが率いる氏族を滅ぼす(=の影響力を奪う)」ことと同義に捉える傾向が見て取ることができます。

 

 しかし,こうした例に倣えば,平家の当主である平宗盛の死をもって平氏は滅びたはずなのですが,捕虜になった宗盛の死は壇ノ浦の戦いから3か月ほど後になります。

 

 本来は,一合戦のことなので,(decisively) defeated the forces of …/ (decisively) won the battle of…に相当する表現を使って,勝敗の行方を事実として記述し,それを歴史的にどう評価するかは別の問題として書き分けるべきではなかったかと思います(これは,教科書や歴史書の記述のありかたの問題を提起するものです)。

 

  もう少しだけ先に歩みを進めると,「Y氏をほろぼす」というのは「量的」に考えることを許します。

 

(6) 家康という人は,どうも名家・名族コンプレックスというか,家柄のよい者に対する憧れが強かったらしく,『大坂の陣』と呼ばれる,慶長十九年(1614)の冬と元和元年(1615)の夏の陣で,豊臣家を完全に滅ぼした後,江戸に本格的な幕府機構を創ったとき,大名,旗本,御家人とは別に高家をこしらえた。(丹波元. 『まるかじり礼儀作法』ルビ省略)

 

 「完全に」というVP副詞と共起することは,「量的」な視点から見た場合,「ほろぼす」の対象が必ずしも ‘all Y’とはならないことを示します(つまり,‘all Y’と’ ‘not all Y’の二通りの可能性が考えられます)。

 

 この点に着目した場合に,英語で参考になるのは,次のChomskyによって最初に提起された例です(「平氏」というのは,英語ではthe Taira clan/ the Heike clanのように定名詞句で表されますが,‘all’と‘not all’の関係は,同様に当てはまるものと仮定します)。

 

(7) a. Beavers build dams.

     b. Dams are built by beavers.

 

  これをO’Brian (1970:267)流に考えると,(7a)のdamsは ‘all dams’と ‘not all dams’の二通りの解釈が可能ですが,(7b)のdamsは‘all dams’の解釈のみが可能です。

 

  「ビーバーがall damsを作る世界(W1)」では,(7a)と(7b)は同義になりますが,「ビーバーがnot all damsを作る世界(W2)」では,(7a)と(7b)は同義とは言えなくなります。現実の世界はW2なので,(7a)は真ですが,(7b)は偽であると言うことができます。

 

 因みに,能動文の目的語の位置では,‘all’と‘not all’の二通りの解釈を許すのに,受動文の主語の位置では‘all’のみの解釈を許すというのは,論理学では解決できない問題の一つです。

 

  「Y氏をほろぼした」を「量的」な視点から解釈した場合,同様に,(8a)は「平氏のallをほろぼした」と「平氏のnot allをほろぼした」の2つの解釈が可能なのに対して,(8b)は「平氏のallをほろぼした」の解釈のみが可能であると考えられます。

 

(8) a. 義経平氏をほろぼした。[=(4a)]

     b. 平氏義経にほろぼされた。[=(4b)]

 

 参考までに,平氏家系図を見てみましょう。

 

(9) 

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                                                 (ウィキペディア平清盛」の項に記載の系譜から引用4)

 

 高清が「六代」と呼ばれることを考慮すると,ここで言う「平氏」とは,忠盛の父である「平正盛」を祖とする伊勢平氏の一支族に属し,かつ,男性である(これを,「平氏a」とします)と考えられます(今日的な観点としては,女系を含めて考える,というか,大化の改新以後に定着した「長子/父子相続制」の視点を脇に置いて考える,ことも可能でしょう)。

 

 (8a)が「『平氏a』のnot allをほろぼした」を意味する結果,「例外を許す」と考えると,頼盛が「ほろびた」中に入らないことに説明がつきます。この場合,(8b)は「『平氏a』のallをほろぼした」を意味するので,(8a)と(8b)は同義ではない,ことになります。

 

 仮に,「平氏a」の範囲をさらに限定して,都落ちをして西走した人々(「平氏b」)と考えると,今度は,教盛の子の忠快の扱いが問題になります。既に仏門に入っていた忠快は壇ノ浦の戦いで捕虜になりますが,命を奪われるどころか,その後は鎌倉幕府から尊崇を受ける高僧として生涯を終わっています。この場合も,(8a)と(8b)は同義ではない,ことになります。

 「平氏a」の範囲をさらに限定して,清盛の子孫のみに限った場合(「平氏c」)に初めて,(8a)と(8b)は同義になります。

 「義経平氏aを滅ぼす世界(W1)」,「義経平氏bを滅ぼす世界(W2)」,「義経平氏cを滅ぼす世界(W3)」の3つの可能な世界で,(8a)は真になりますが,(8b)は,W3の世界でしか(8a)と同義にならないし,また,真にもならない,と考えられます。

 

 従って,(4a)と(4b)は「異なる」が正解であると考えることができます。

 

 言い方を換えれば,(4a)のような偶然的命題については,どのような意味で真と言えるのか「前提(premises)」を明示的に指定しない限り,同義性を判断することはできないのです。

 

  次回は「Alexandraの愛称はAlexである」を取り上げます。

 

1. [PDF] Untitled-リーディングスキルテスト

 https://www.s4e.jp/wysiwyg/file/download/1/22     (参照日:2018年11月25日)

2. (i) a. The cat chased the rat.

        b. The rat was chased by the cat.

 the chaserがthe catで,the chaseeがthe ratである点では,(ia)と(ib)は一致します。主題関係が一致することで「同義である」と考えるのであれば,(ia)と(ib)は「同義である」という言い方ができます。しかし,認知言語学では,(ia)と(ib)をsynonymousであるとは考えないのです(Vesterinen 2011:32)。(1)で見たリーディングスキルテストのサンプル問題は,認知言語学の真価が問われる問題と言うことができるでしょう。

3. 言語学系の人ならThe dinosaur is extinct.という言い方で済ます人もいるのですが,鳥類が恐竜の子孫である(可能性)を考慮して,自然科学系の人であれば,The dinosaurs are extinct.と表現するところです。日常言語で表される話し手の認識というのは,必ずしも科学的に厳密であるわけではありません。

4. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

   (参照日:2018年11月25日)