現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

ポーランドに侵攻したのは,ドイツである

                    帽子をかぶっていない子供は,みんな女の子です#3

                   -ポーランドに侵攻したのは,ドイツである-

 1. 自然言語の解釈では,情報を重視する

 「論理的に考える力」を評価する場合に注意しなければならないのは,日常の世界では,情報を重視するということです。

 

 例えば,「は」と「が」の間に対立が生じる場合,この違いに関係するのは,「論理」ではなく「情報」です。

 

 今回は,「ポーランドに侵攻したのは,ドイツである」という「答え」が果たして正しいのかどうか考えてみたいと思います。

 

 (1)

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(新井紀子. 2016.「AIが大学入試を突破する時代に求められる人材育成 資料3-1」1)

 

 (1)の本文から「枝葉」の部分を取り除いて,語句に若干修正を加えると,(1)の「骨格」はおおむね(2)のように表すことができます。

 

(2) オーストリアチェコスロバキアの次に,ドイツはポーランドに侵攻した。

 

 書き手自身は,ドイツをトピックに選び,「ドイツはyに侵攻した」というopen命題に現れる変項yの取り得る値が,オーストリアチェコスロバキアポーランドの3つであり,かつ,ポーランドが時間的な順序で並べると,3番目に当たると述べています。

 

 「読解力」を診断するといった場合,基本的なレベルであれば「書き手が何を言っているのか?」に視点を置いて,伝えようとしている情報が正しく理解できているか診断することを指すと考えるのが妥当ではないでしょうか?2

 

 ところが,この問題では「ポーランドに侵攻したのは,y」という別のopen命題に現れる変項yの取る値を尋ねています。これは,出題者の視点から「書き手の伝えようとしている内容」を再解釈する問題となっています。3

 

 このリーディングテストでは,受験者は,「書き手が何を言っているのか?」という課題に加えて,「出題者はどう読んだのか?」という課題にも対処しなければならなくなっているのです。

 

 現実には,出題者というのは,自分が取り上げた文章を正しく理解できているとは限らないのです。残念なことに,読解問題の中には,「出題者が正解と考える選択肢を選ぶ問題」があるのです。隠れた出題ミスの大半はおそらく「出題者の誤読」にあると思われます。

 

 今回の事例で言えば,原文で「トピック」であったものを「焦点」として抽出させるという実に無謀なことが行われています。「情報」という視点から見ると,まさに右と左を,上と下をひっくり返すような逆さまな現象が起きているのです。

 

(3) a. ドイツポーランドに侵攻した。

     b. ドイツはyに侵攻した+「y=ポーランド

(4) a. ポーランドに侵攻したのは,ドイツである (=ドイツポーランドに侵攻した)。

  b.  xがポーランドに侵攻した+「x=ドイツ」

 

  「情報」という視点から言えば,(3a)はyという変項に入る値がポーランドであると,(4a)はxという変項に入る値がドイツであると,主張しています。

 

 ここで,真偽に関係するのは「主張している部分」であるという考え方に立つと,(3a)は「y=ポーランド」が成り立つ場合に真となり,(4a)は「x=ドイツ」が成り立つ場合に真となると言えます。

 

2.「情報」の視点から書かれた文章に,なぜか突然「主題関係」を持ち込む出題者

 ところが,です。

 ところが,「論理」の世界から見ると,「ドイツはyに侵攻した」も「xがポーランドに侵攻した」も,「侵攻した(ドイツ,ポーランド)」という命題に包摂されます。4

 

 「論理」の世界では,個々の特定の文脈(世界)を考慮しないので,「命題が真である」といった場合,命題が真になるすべての世界を含みます。この視点から見ると,(3a)も(4a)も,ドイツがagentで,ポーランドがpatientであるという点で,主題関係が一致するので,「意味が同じである」という言い方も可能になります。

 

 とすると,「論理」の世界から眺めれば,「ポーランドに侵攻したのは,(     )である」の(     )に「ドイツ」を入れて正解だと考えてもよいように…見えます。

 

 果たして,そうでしょうか? 何か見落としていることはないでしょうか?

 

3. 事実関係を確認しない出題者

 では,次の(5a)を読んで,(5b)の空所に入る選択肢を(5c)から選べと言われたら,どう対応しますか?

 

(5) a. オーストリア,次いでチェコスロバキア西部を併合したドイツは,それまで対立していたソ連独ソ不可侵条約を結んだうえで,1939年9月,ポーランドに侵攻した。同じ月に,ソ連もまたポーランドに侵攻した。

     b. ポーランドに侵攻したのは,(    )である。

  c. A オーストリア    B チェコスロバキア    Cドイツ    Dソ連

 

  「ポーランドに侵攻したのは,(    )である」は,英語でいう分裂文に相当し,機能的には,(    )に入る国をすべて残らず列挙することが求められます。5

 

 史実を確認すると,例えば,E. G. Windchy, Twelve American Warsによれば,In September of 1939, Germany and the Soviet Union invaded Poland, reclaiming lost territories.が事実として述べられています。

 

 すると,(1)の原文で関係する命題は(6a)ですが,空所補充文の「ポーランドに侵攻したのは,(    )である」と関係する命題は(6b)ということになるので,書き手と出題者とでは扱っている命題が異なっているということになります。真理条件が異なるので,もはや,意味が同じであるとは論理的にも言えなくなるのです。

 

(6) a. 侵攻した(ドイツ,ポーランド)

  b. 侵攻した(ドイツ&ソ連ポーランド)

 

 従って,(1)については「正解がない」というのが正解,ということになります。

 

 出題ポイントが果たして正解として成り立つのかどうか,その精査には緻密さが出題者に求められますが,その際の作業の一つに,素材を複数のソースと照合することが含まれます。この場合で言えば,歴史的記述がどうなっているのか,他の文献にあたることが当然の責務となるのです。

 

4. 首尾一貫しない出題者

  否定文を考慮する場合には,「論理の世界」では処理できない壁にぶつかります。

 

  命題pの否定は¬pですが,こと「論理の世界」では,pが偽になるすべての世界を含んでいて,どのような世界で偽になるかを問題にしません。

 

 指定文では「主題関係」を持ち出した出題者も,否定文が絡んでくると,どのような世界で否定文が成立するのか考えざるを得ない状況に追い込まれます。

 

(7) この方法を昨年次のように改良しました。世界史のセンター入試の問題は,正誤判定問題が七割から八割出ます。6 正誤判定問題に対しては,例えば「カール大帝マジャール人を攻撃した」,これは誤った文ですが,どうやってそれが分かるかというと,「何々はマジャール人を攻撃した」という文と「マジャール人は何々を攻撃した」というクイズ問題を自動生成しまして,それで先ほどのような方法で解きにいきます。「カール大帝は“何々”を攻撃した」ところには「アヴァール人」が入りやすいことが分かります。そのことから,マジャール人は間違いだと認識をいたしまして,100点中76点を獲得しますと,今の高校3年生に比べてはるかに高い能力を示しまして,偏差値66.5を達成することができております。

(「教育振興基本計画部会(第8期~)(第5回)議事録」7 発言者は新井紀子氏。)

 

 (1)で「主題関係」を読解の主軸に据えたのであれば,当然,「カール大帝マジャール人を攻撃した」が真か偽かを判断する場合にも,主題関係に視点を置いて考えることが期待されます。つまり,patientだけでなくagentの「xはマジャール人を攻撃した」にも目を向けてxの値を検討すると,「x=オットー1世」となることから,「カール大帝マジャール人を攻撃した」は間違いだと認識したという言い方もできるはずです。

 

 しかし,実際には,「カール大帝はyを攻撃した」のyの値が「アヴァール人」である確率が統計的に高いことを根拠に間違いだと認識したと述べているのです。

 

 これこそまさに日常言語の世界における判断の仕方なのです。

 

 「カール大帝マジャール人を攻撃した」というのは,Payneをアレンジして言えば,I say of Charles the Great that it is true that he attacked the Magyars.となります。これが偽の場合は,I say of Charles the Great that it is not true that he attacked the Magyars.となります。

 

 何を言いたいのかというと,「カール大帝」がトピックの場合,「カール大帝」は否定の作用域に入らないということです。日常言語の世界では,主語がトピックの場合,述部を否定すれば,それで文を否定したことと同じになる場合があるのです。このとき,肯定文が命題として偽の場合,述部を否定した文が命題としては真になるのです。

 

 (3a)に戻ると,これが仮に真か偽か分からない場合,述部の部分だけを確かめればよいのです。それが日常言語の考え方です。

 

 否定文について,トピックを考慮するのであれば,(1)の問題でも,同様に,「トピック」を考慮すべきなのです。

 

 言い方を換えれば,(1)の文章の読解において「トピック」と「焦点」を同一に扱って考えたことが,そもそもの誤りなのです。

 

 と,本来は,今日の話はここでおしまいなのですが,

 

疑問に思うのは,(1)の問題が実際に成立するかどうかについては,日本語学・日本語教育学の領域の研究者が助言できる立場にあったと思うのですが,どうして放置されたままになっていたのか?ということです。

 

 しかし,それ以上に疑問なのは,(1)が教育振興基本計画部会でのヒアリングの一部であることと関係します。

 

 この部会は,2030年以降の教育の内容や方向性について基本案を作成する任務を負う点で,日本の若い国民と日本という国家の将来の命運に大きな影響を与える可能性のある部会です。当然,傑出して優秀な人材が抜擢されていることだと思うのですが,この人々が(1)の問題に何の疑問も感じていないようなことが不思議であると同時に恐怖なのです。

 

 Chomskyに従って考えれば,日本語の(大人の)母語話者であれば,誰でも「ドイツポーランドに侵攻した」と「ポーランドに侵攻したのは,ドイツである (=ドイツポーランドに侵攻した)」がそれぞれどんな意味を表すのか理解できます。すると,(共通点だけでなく)相違点についても理解できていると考えられます。加えて,程度の差はあっても,百科事典的知識も備えています。日本語を理解する力と知識において,標準的な私たちと比べて傑出していると想定される部会の委員が誰一人として,この問題のおかしさに気づかないとしたら,私たちの子供の未来や日本の将来を託して大丈夫なのか?という懸念が払しょくできない状態でいます。

 

 次回は「平氏義経に追いつめられ,ついに壇ノ浦でほろぼされた」を取り上げます。 

 

〔注〕

1.http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo14/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2016/07/04/1373986_3_1.pdf

(参照日:2018年11月10日)

2. 基本的なレベルということであれば,設問の立て方は,identificationalになります。というか,読解問題というのは,基本的に,identificationalに情報を整理する方向で作題されます。ところが,「yなのは,x」は,通例,xを焦点とするspecificationalな文です。

 例えば,Germany [invaded [POLAND]].は,学校英語のレベルでは,It was POLAND that Germany invaded.と「意味が同じ」であると指導されると思いますが,両者の解釈は,厳密には同じではありません。simple sentencesで記述された表現を,分裂文を使って再解釈する場合には,注意しなければならないことがあるのですが,この点については,機会を改めて考えてみたいと思います。

3. もちろん,これ自体は決して悪いことだとは考えていません。読み手が自分で視点を選び,能動的に読む作業に参加することが,新しい発見や探求,あるいは新たな価値の創造へとつながるからです。

 例えば,「ドイツは」と,ドイツがトピックでunderstoodなので,空所補充文では省略されたと考えると,「ポーランドに侵攻したのは,y」は,実際には「『ドイツがポーランドに侵攻した』のは,y」と解釈することができます。

 この場合,yには(少なくとも)3つの値が入る可能性がありますが,この中で,最も興味深いのは,「ソ連独ソ不可侵条約を結んだうえで」の「うえで」をどのように解釈してyに入れるかです。

 一つの解釈として,これはポーランド侵攻にとって必要条件であるが,同時に十分条件(を構成する必要条件の一つで,しかも,crucialでかつlastな必要条件)であると考えることができます。この読み方が正しいかどうか,さらに大きなコンテクストで検証してみようという新たな探求へと誘うきっかとなります。また,語法的に見れば,「~したうえで」の意味の定義に,必要条件・十分条件が関与するという一般化が可能なのかどうか検証してみようという探求へと誘うきっかけともなります。

4. ここでは,単純化のため,時制を付け加えた状態で考えることにします。

5. 少なくとも,英語に関して言えば,Horn (1981)は,ここで議論している焦点要素のexhaustivenessには影響しません。影響しないものに言及するというのも不思議な話ですが,「参考文献に~がないのですが」という指摘を受けた経験のある人がいるかもしれません。しかも,「論点が理解できていれば,そのような指摘をする可能性が存在するの?」という状況で苦い経験をした人がいるのではないでしょうか。不毛な混乱を避ける意味で,Horn (1981)は織り込み済み,と断っておく次第なのです。

6.「世界史のセンター入試」は,知識詰込み主義教育における出題方式の典型であると,新井氏は述べているような印象を受けます。「考える力」を「世界史のセンター入試」でどう診断する方向に向かうのかは興味深い問題ですが,その前に考える必要があるのは,世界史をどう指導するかではないかと思います。

7. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo14/gijiroku/1383576.htm (参照日: 2018年11月10日)