現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

誰もが,誰かをねたんでいる (2)

                                    誰もが,誰かをねたんでいる (2)

                                    -本当は,何が面白いのか?-

 

  学会発表に限らず,どんな発表でも,質疑応答の際に,トンチンカンな質問に遭遇することがあるのではないでしょうか? そんな時,相手の体面を損なうことなく,自分からミスに気がつくようにやんわりと促すよい方法がないものかと悩むところです。

 

 つい最近も,形式論理学の陣営であれば,そんな質問がでるはずが…という当惑から,しどろもどろになってしまいました。相手が何をどう考えていたためにこんな質問がでた可能性があるのか想像する一方で,質問が見当違いであることに気づいて自分から取り下げてくれるにはどうすればよいのか考えていたのですが,結局,質問者がDummett (1981:12)を読んでいないということに気づきました。

 

 「ちゃんと読みました (読めています)?」これで一挙に解決なのですが,その手が使えるなら,気が楽ですね。

 

    論理学では,一義的に分析する文が,実際には,二義的な解釈を許す場合があります。「誰もが,誰かをねたんでいる」は,Dummett (1981:12)の(1)を下敷にしています。

 

(1) Everybody envies somebody.

 

  Dummett (1981:12)は,(1)の意味に(2a)だけを認めています。確かに,(2a)は(1)の普通の(normal)読みですが,実際には,(2b)の読みも可能なのです。

 

(2) a. Everybody is such that they envy somebody.

     b. Somebody is such that they are envied by everybody.

 

    Dummett (1981:12)は,(2b)の読みを表す表現の一つに(3)を挙げていますが,実際には,(3)もまた,(2a)と(2b)の両方の読みを許します(ただし,普通の読みは,(1)と逆で,(2b)になります)。

 

(3) Somebody is envied by everybody.

 

 不思議なことですが,論理学の人は,「(3)の形式を普通,(2b)の意味で解釈するのがなぜなのか?」疑問に感じることがないようなのです。論理形式への「翻訳」が機械的処理だとでも勘違いしているのでしょうか。意外と,言語データの「意味」そのものが正しく理解できていないのも驚かされることの一つです。それを象徴するのが,新井(2019)ですが,豊かな自然言語の豊かな表現力の一部だけを見て,人間の思考をAI化することに努力を無駄に傾注しているだけでは,というのが私の印象です。

 

 (1)や(3)の多義性は,通例,somebodyの二義性に着目して説明されます。言語学の用語で言えば,(2a)のsomebodyが非特定的(non-specific)であるのに対して,(2b)のsomebodyは特定的(specific)であると説明できます。

 

 しかし,二義性が,somebodyだけでなく,everybodyにも関与することは見落とされがちです。論理学では,everyが‘each’を意味する(distributive)と考えますが,もしそうであれば,(1)と(3)は常に同義になり,第二の意味は生じません。

 

 (2b)のeveryはcollectiveな意味を表します。ここで,everybodyの領域を{Jack, John, Tom}, somebodyの領域を{Betty, Mary, Nancy}とします。

 

 すると,(2a)は「それぞれの人について,その人は,少なくとも一人をねたんでいる」を表すので,例えば,Jack envies Betty., John envies Mary., Tom envies Nancy.のような世界(状況)を表します。

 

 また,Betty, Mary, Nancyが,それぞれJack, John, Tomのsisterであるという関係が成立する場合には,Everybody envies their sister.を意味すると考えることもできます。

 

 これに対して,(2b)の読みは「少なくとも一人について,その人は『(領域内の)すべての人』にねたまれている」なので,例えば,Jack envies Betty., John envies Betty., Tom envies Betty., つまり,Jack, John and Tom (=All the three) envy Betty.を表します。

 

  述語論理では,(2a)の読みは∀x∃y E(x, y),(2b)の読みは∃y∀x E(x, y)で表します。

 

 しかし,(2a)の∀はdistributiveですが,(2b)の∀はcollectiveです。つまり,同じ記号を使っているのですが「意味」が違うのです。これがなぜかということも,論理学の人は考えていないようなのも不思議なことです。

 

 英語と日本語を比較した時に,一番の問題となるのは,(2b)の∃yの解釈です。特定的というのは,話し手が特定の人を思い浮かべているので,話し手から見ると,(2b)の読みでは,somebodyは指示的になります。しかし,「誰かが誰からもねたまれている」では,「誰か」が指示的読みになりません。

 

 つまり,英語の母語話者と日本語の母語話者では,∃y∀x E(x, y)という論理形式から見える「風景」が異なるのです。

 

 もう少し丁寧に言えば,「{誰もがねたむ/誰からもねたまれる}人がいる」とすればよいのではないかという声が聞こえてくるかもしれません。この場合,「いる」が「人」に存在数量詞としての読みを与えています。この点を脇におくとして,英語では,somebodyで(2a)と(2b)の∃を表すことができますが,日本語の「誰か」は(2a)の∃にしか対応しないのです。

 

 これをどう考えるか。本当の面白さは,(1)に対応する受動文があるかどうか,などという皮相にあるのではないのです(現時点で把握している「面白さ」をすべて取り上げれば,一冊の本が書けると言ってよいでしょう)。