現代英語の文法を探求する

英語学とその隣接領域に関する見解を個人の立場で記述しています。

0は偶数である(1) -考える喜び(と学力)を奪っているのは何か?-  

               0は偶数である(1)

         -考える喜び(と学力)を奪っているのは何か?

 

  1. はじめに

 数学の知識は,論理的に考えることを必ずしも保証しないようです。

 

(1) 

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        (「沖縄県立球陽中学校で研究授業をしましたRST. 2020年10月13日)

 

 (1)には,少なくとも,3つの問題点があります。最初の2つは(2)と関係します。

 

(2) a. 偶数に手を挙げた生徒が圧倒的に多数でした

  b. 球陽中の3年生がいかに定義を正確に読めるか,がわかります。

 

 仮に,(3)のような定義を提示した後に,その理解度を確認する目的で「0は偶数かどうか」尋ねたというのであれば,(2a)の事実から(2b)を結論として導き出すことは,論理的に妥当であると言えます。

 

(3) Even numbers are defined as those numbers that are divisible by 2; odd numbers  

     leave a remainder of 1 when divided by 2. 

                 (Y. K. Cheong, Mathematical Quickies & Trickies)

 

 (1)に再び目を向けると『意見が割れたときには,定義に戻ることが重要です。偶数の定義は?というと手を挙げて次のように答えてくれた生徒がいました』という記述があります。これは,定義から議論を始めていれば意見が割れなかった(はずだ)が,定義を飛ばして途中からいきなり議論を始めたら,意見が割れたので,議論の出発点を「定義を確認する段階」にまで戻すことでようやく,研究授業のクラス内で偶数の定義が確認された(=情報が共有された)ことを示しています。

 これは(2b)と矛盾します。つまり,『最初の問題』というのが,実際には「偶奇の定義に基づいて判断する問題」ではないので,(2b)を(2a)の帰結であると考える理由はないのです。

 もう1つの問題点は,この『最初の問題』というのが,学力の診断になんら有効なものではないことです。『最初の問題』は,単に「0は偶数である」ことを知っていたかどうかを尋ねているにすぎません。もう少し正確に言うと,「ある定義を知っている」ことを前提に,「0は偶数である」という知識を活性化させることができたか尋ねているにすぎません。

 

(4) Ask a mathematician whether zero is an even or an odd number? The answer would 

     be: If you define evenness or oddness on the integers (either positive or all), then zero

     should be taken to be even; but if you define evenness and oddness on the natural

    numbers, then zero would be neither. This is because we apply concepts such as

    “even” only to “natural numbers,” in connection with primes and factoring, where by

    “natural numbers” one means positive integers and so excludes zero.

                  (A. Bala and P. Duara eds., The Bright Dark Ages)

 

 (4)は議論の途中までしか引用していませんが,整数の性質を「正の整数」の範囲で考えるのか,0と負の整数を含めた「すべての整数」の範囲で考えるのかによって,「0は偶数である」という命題が真か偽かの判断が異なってくることが分かります。

 例えば,「4と6の最大公約数は何か?」という整数問題を解くときには,整数の範囲は「正の整数」に限定されるので,2の倍数[=偶数]は2から始まり,0は含まれません。

 結局のところ,整数の範囲を指定しないまま,「0は偶数である」が正しいかどうかを尋ねているのですが,これはまったく無意味なことです(強いて言えば,質問者の意図を忖度する「問題」となっています)。

  3つ目の,しかも,(1)に関する最大の問題点は,次の(5)にあります。

 

(5) 0÷2=0 あまり 0

   つまり,これは真の命題で,しかも証明がつきましたから,「定理」になりました。

 

 (5)がはらむ問題点はいくつかに分けて考えることができますが,それについては次回で取り上げることにして,ここでは『定理』という箇所に着目することにします。

 「2で割った時のあまりが0」という条件を満たせば,何でも『定理』になるのか?という疑問は脇において,「0は偶数である」が『定理』になるということは,ここからdeductiveに別のある知識を導くことができることを示唆します。

  x÷2=0は,x=2×0と変形できます(こう考えれば,x=0であることが見えやすくなります)。すると,「0は2の倍数である」と言うことができます。

 実際,(1)の後で,偶数の定義を「2n (ただしnは整数)と表せる数」と述べています。

 

(6) 

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        (「沖縄県立球陽中学校で研究授業をしましたRST. 2020年10月13日)

 

 以上を踏まえて,次に進むとしましょう。

 

(7) 偶数は2の倍数である

   0は偶数である                

     0は2×0に等しい

 

 (7)の推論は正しいと言えるのだろうか? (1)では,2つの前提(premises)を真として扱っているようなので,議論を単純化すれば,帰結が正しいと言えるのかどうかを考えればよいことになります。

 ちなみに,帰結の部分は,英語で表せば(8)のように表現できるでしょう。

 

(8) If x is zero, then x must be two times zero.

 

 RSTは,この問い(「(8)は真か偽か?」)にどう答えるのだろうか? いや,そもそも答えることができるのだろうか? これが3つ目の問題である。

誰もが,誰かをねたんでいる (2)

                                    誰もが,誰かをねたんでいる (2)

                                    -本当は,何が面白いのか?-

 

  学会発表に限らず,どんな発表でも,質疑応答の際に,トンチンカンな質問に遭遇することがあるのではないでしょうか? そんな時,相手の体面を損なうことなく,自分からミスに気がつくようにやんわりと促すよい方法がないものかと悩むところです。

 

 つい最近も,形式論理学の陣営であれば,そんな質問がでるはずが…という当惑から,しどろもどろになってしまいました。相手が何をどう考えていたためにこんな質問がでた可能性があるのか想像する一方で,質問が見当違いであることに気づいて自分から取り下げてくれるにはどうすればよいのか考えていたのですが,結局,質問者がDummett (1981:12)を読んでいないということに気づきました。

 

 「ちゃんと読みました (読めています)?」これで一挙に解決なのですが,その手が使えるなら,気が楽ですね。

 

    論理学では,一義的に分析する文が,実際には,二義的な解釈を許す場合があります。「誰もが,誰かをねたんでいる」は,Dummett (1981:12)の(1)を下敷にしています。

 

(1) Everybody envies somebody.

 

  Dummett (1981:12)は,(1)の意味に(2a)だけを認めています。確かに,(2a)は(1)の普通の(normal)読みですが,実際には,(2b)の読みも可能なのです。

 

(2) a. Everybody is such that they envy somebody.

     b. Somebody is such that they are envied by everybody.

 

    Dummett (1981:12)は,(2b)の読みを表す表現の一つに(3)を挙げていますが,実際には,(3)もまた,(2a)と(2b)の両方の読みを許します(ただし,普通の読みは,(1)と逆で,(2b)になります)。

 

(3) Somebody is envied by everybody.

 

 不思議なことですが,論理学の人は,「(3)の形式を普通,(2b)の意味で解釈するのがなぜなのか?」疑問に感じることがないようなのです。論理形式への「翻訳」が機械的処理だとでも勘違いしているのでしょうか。意外と,言語データの「意味」そのものが正しく理解できていないのも驚かされることの一つです。それを象徴するのが,新井(2019)ですが,豊かな自然言語の豊かな表現力の一部だけを見て,人間の思考をAI化することに努力を無駄に傾注しているだけでは,というのが私の印象です。

 

 (1)や(3)の多義性は,通例,somebodyの二義性に着目して説明されます。言語学の用語で言えば,(2a)のsomebodyが非特定的(non-specific)であるのに対して,(2b)のsomebodyは特定的(specific)であると説明できます。

 

 しかし,二義性が,somebodyだけでなく,everybodyにも関与することは見落とされがちです。論理学では,everyが‘each’を意味する(distributive)と考えますが,もしそうであれば,(1)と(3)は常に同義になり,第二の意味は生じません。

 

 (2b)のeveryはcollectiveな意味を表します。ここで,everybodyの領域を{Jack, John, Tom}, somebodyの領域を{Betty, Mary, Nancy}とします。

 

 すると,(2a)は「それぞれの人について,その人は,少なくとも一人をねたんでいる」を表すので,例えば,Jack envies Betty., John envies Mary., Tom envies Nancy.のような世界(状況)を表します。

 

 また,Betty, Mary, Nancyが,それぞれJack, John, Tomのsisterであるという関係が成立する場合には,Everybody envies their sister.を意味すると考えることもできます。

 

 これに対して,(2b)の読みは「少なくとも一人について,その人は『(領域内の)すべての人』にねたまれている」なので,例えば,Jack envies Betty., John envies Betty., Tom envies Betty., つまり,Jack, John and Tom (=All the three) envy Betty.を表します。

 

  述語論理では,(2a)の読みは∀x∃y E(x, y),(2b)の読みは∃y∀x E(x, y)で表します。

 

 しかし,(2a)の∀はdistributiveですが,(2b)の∀はcollectiveです。つまり,同じ記号を使っているのですが「意味」が違うのです。これがなぜかということも,論理学の人は考えていないようなのも不思議なことです。

 

 英語と日本語を比較した時に,一番の問題となるのは,(2b)の∃yの解釈です。特定的というのは,話し手が特定の人を思い浮かべているので,話し手から見ると,(2b)の読みでは,somebodyは指示的になります。しかし,「誰かが誰からもねたまれている」では,「誰か」が指示的読みになりません。

 

 つまり,英語の母語話者と日本語の母語話者では,∃y∀x E(x, y)という論理形式から見える「風景」が異なるのです。

 

 もう少し丁寧に言えば,「{誰もがねたむ/誰からもねたまれる}人がいる」とすればよいのではないかという声が聞こえてくるかもしれません。この場合,「いる」が「人」に存在数量詞としての読みを与えています。この点を脇におくとして,英語では,somebodyで(2a)と(2b)の∃を表すことができますが,日本語の「誰か」は(2a)の∃にしか対応しないのです。

 

 これをどう考えるか。本当の面白さは,(1)に対応する受動文があるかどうか,などという皮相にあるのではないのです(現時点で把握している「面白さ」をすべて取り上げれば,一冊の本が書けると言ってよいでしょう)。

                         専門家は「専門家」なのだろうか?(2)

 

    感染連鎖を可視化するすべ

    前回の(2)を新たに(1)として再掲しよう。

 

(1)

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(T. Leslie et al., “What we can learn from the countries winning the coronavirus fightThe ABC First published Mar. 26, 2020)

 

   リンク先の文章を読んだ上で,「(1)のグラフから何が言えますか? 30語~50語の英語で答えなさい」という課題が与えられたとしたらどう答えるだろうか?

 例えば,こんな答案が考えられるだろう。

 

(2) If you focus on Japan, you will find that the line of Japan is surprisingly identical to that of Singapore. The expert consensus is that Singapore is successfully flattening the curve of the infection rate. Considering this, we could say that Japan is well in control of the covid-19 pandemic. (50 words)

 

    ピークを遅らせ,同時に,ピーク時の感染者数を抑えるという“to flatten the curve”に成功を収めつつある感染症対策の「優等生」であるシンガポールに日本は並んでいるのである。

    シンガポールと言えば,押谷仁氏(「クラスター対策班」のリーダー)は次のように述べているとされる。

 

(3) a. 見えないまま感染を広げるウイルスに、どう対応すればいいのか。

中国が行った戦略は都市を丸ごと封鎖し、人の外出・接触を制限すること。しかし日本では強制的に実行する法律上の仕組みはない。もう一つ考えられる戦略はPCR検査の徹底。しかし日本では検査体制は十分に整備されておらず、直ちにPCR検査の数を増やすことは困難だった。さらに盤石とは言えない医療体制への不安。

「日本の選択肢を考えた時に、中国のようにできないし、シンガポールのようにできないし。そうすると、このウイルスのどこかにある弱点をついて対策を考えざるを得ない。」(押谷さん)        

                          (「新型コロナウイルス感染拡大阻止最前線からの報告NHK 4月15日)

  b. シンガポールでは現在、感染連鎖を可視化しようとして全力を挙げて取り組んでいて、地域内での流行の実態が少しずつわかってきている。これは2003年のSARSの流行の後、このような事態に対応できる体制を整備してきたからこそできていることである。シンガポールではほとんどすべての病院でこのウイルスの検査をする体制が整備されていて1日2000検体以上を検査することが可能である。日本においても検査体制は急速に整備されていくと考えられるが、現時点では日本には感染連鎖を可視化するすべは限られている。そのような中でどうしたら最も効率よく感染連鎖を可視化できるのを考えないといけない。

(押谷仁.「新型コロナウイルスに我々はどう対峙したらいいのか(No.2)東北大学大学院医学系研究科・医学部)

 

    これを見ると,押谷氏本人は,感染連鎖を可視化するすべとして「PCR検査の徹底」が重要であると認識していたことが分かる。しかし,感染終息のための日本の対策は,「PCR検査に頼れない(実情の改善)」から,いつのまにか「PCR検査に頼らない(検査の軽視)」へと変質する。

    現在,いわゆる「第二波」という言葉で表現される「感染の揺れ戻し」への懸念が高まっている。今度こそ,感染連鎖を最も効率よく可視化し,感染再拡大の危機を事前に回避するためには,「PCR検査の徹底」という「王道」に立ち返るべき時であろう。

 押谷氏は,また,こうも語っているという。

 

(4) 我々の戦略の目的は、いかにして社会的、経済的な影響を最小限にしながら、ウイルスの拡散を最大限抑えていくか、ということでした。

                         (「新型コロナウイルス感染拡大阻止最前線からの報告NHK 4月15日)

 

    であれば,「感染経路が不明な“孤発例”」が増加し,クラスター対策に行き詰まった時点で,「クラスター対策班」の任務をいったん解き,新たな戦術班が「社会的、経済的な影響を最小限にしながら、ウイルスの拡散を最大限抑えていく」戦略を練るべきだっただろう。

 

(5) 3月中旬、東京の感染者は、じわじわと増え始めていた。対策チームが懸念していたのは、感染経路が不明な「孤発例」と呼ばれる感染者の存在。それは、クラスターの背後に未知のクラスターが潜んでいる可能性を意味する。これを放置すると、2、3日で累計の感染者が倍増していくオーバーシュートを引き起こす恐れがある。 対策チームは東京都にも感染者数の予測データを提示し、人々の行動を変える強い措置 を取るべきだと助言。3月25日に都は感染爆発の重大局面として、週末の外出自粛を初めて呼びかけた。

                      (「新型コロナウイルス感染拡大阻止最前線からの報告NHK 4月15日)

 

    3月中旬というのは,(1)のグラフで言うと,Day 20の直前あたりである。症例数で見ると「じわじわと増え始めていた」時期かもしれないが,対数目盛で見ると,倍加時間が7日より多くなりかけていた時期である。マクロ的な視点からすると,日本は感染拡大を効果的に抑え込みつつある時期である。その時期を「オーバーシュートを引き起こす恐れがある」と認識していたのである。「クラスター対策」という目先のことを追うあまり,感染の全体像がまったく見えていなかったのではないだろうか?国も4月下旬頃までには(1)に引用するような情報を入手していたと思われるので,海外の専門家も交えたpeer reviewを導入して,クラスター対策班および専門家会議の「実力」の検証が望まれるところである。

    話を少し戻そう。仮に,全体像がまるで見えていなかったにせよ,東京と大阪の2つのepicentersに対して,感染の流出の危険性を最小限に止めるために,移動の自粛を強く進言するべきだったろう。

 

(6) 足元では、全国各地でクラスターと呼ばれる集団感染が確認されるようになっています。これについては、3月の三連休における緩み、都市部から地方への人の移動が全国に感染を拡大させた可能性があるというのが専門家の皆様の分析です。

また、東京都や大阪府など7都府県では、既に知事による休業要請などが進む中で、一部にコロナ疎開と呼ばれるような、外の地域への人の動きが見られるとの指摘があります。間もなくゴールデンウィークを迎えますが、感染者が多い都市部から地方へ人の流れが生まれるようなことは絶対に避けなければならない。それは最も恐れるべき事態である、全国的かつ急速なまん延を確実に引き起こすことになります。

(「新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会見首相官邸4月17日)

 

 結局,第2の福岡のような事態を引き起こさないことが肝要だったわけで,ゴールデンウィークの人出が予めちゃんと読めるように,東京と大阪が移動自粛の周知を徹底していれば,5月6日には,東京と大阪以外で,宣言の解除になっていた公算が高かったろう。

 経済の再開が出遅れたことは大きい。「真水」と呼ばれる国の支出は57兆円にものぼるという。

 

(7) 「真水」の支出には、具体的にどんな予算が含まれるんですか?

例えば一律10万円の給付、最大200万円を給付する事業者向けの「持続化給付金」や家賃支援の給付金。それに地方創生臨時交付金や10兆円の予備費などが含まれ、第2次補正予算案の国の一般会計の歳出は、過去最大の31兆9114億円となっています。...

 経済対策の効果を見るうえで、重視されるのが「真水」と言えます。  「真水」は国が直接支出する、実際に使われるお金を指しているので、GDP=国内総生産をどれだけ押し上げる効果があるのか、測りやすいとされています。...

 また、国の支出は、私たちの税金がどれだけ使われるのかを示しています。2つの補正予算を合わせて、一般会計の追加歳出は57兆円余りとなる一方、財源は全額を新たな借金にあたる国債の追加発行で賄い、将来世代につけを回す形になりました。そうした実際の負担を考える上でも、「真水」という概念は大事です。

                                                        (「予算に出てくる「真水」って何?NHK 6月2日)

 

    今回の支出は,国債で賄われるために,「痛み」が可視化しにくいが,これが,仮に,来年から10年間で,国民が償還していくとすると,消費税を3%引き上げるのに等しいのである。

  4月1日に感染ピークを迎えていたのであれば,この57兆円をどう説明するというのだろうか?

 新しい生活様式では,今もなお,近くに発症者がいるという前提で行動することが求められる。実際には,一人もいない場合でも,である。非常に息苦しい上に,同じ市民として終息へ向けての連帯感・社会的絆を共有することが難しい状況を生んでいる。

 実は,もっとよい(いや,真によい)モデルが3月に提案されていたのである。

    大橋モデルである。大橋モデルのよいところは,

  

 着眼点,である。

専門家は「専門家」なのだろうか?(1)

  1. 緊急事態宣言は必要だったのだろうか?

 専門家はオーバーシュートを最も恐れていたという。

 

(1) 専門家が最もおそれている「オーバーシュート」(爆発的感染)は、感染者数が2倍、そのまた2倍、さらに2倍と、「指数関数的」に増えていく状態だ。現在、国内ではオーバーシュートは起きていないが、この「倍化時間」が2~3日となると、オーバーシュートと判断される。    (「緊急事態宣言 解除の条件とは?NHK政治マガジン. 4月30日)

 

しかし「専門家」であるはずの専門家は,状況を読み間違っていたのではないだろうか?

 

(2)

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 (T. Leslie et al., “What we can learn from the countries winning the coronavirus fightThe ABC First published Mar. 26, 2020)

 

 (2)のグラフは,累計感染者数が100人に到達した日を起点に,横軸に経過日数,縦軸に感染者数を表したものである。特徴は,縦軸の目盛りが対数になっていることで,100の次が1,000, 1,000の次が10,000というように,10の累乗で表示されている。

 (2)を見ると,オーバーシュートと呼ばれる現象は,最初の2週間が鍵となることがわかる。原点から3つの方向に伸びる点線の直線は,倍加時間を表す。

 オンライン分度器、角度測定ツール – Ginifabを使って,(2)の図に分度器を当てると次のようになる。

 

(3)

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   倍加時間で見ると,累計感染者数が2倍になる日数が2日,つまり,倍加日数が2日の場合,点線の直線(line A)の傾きが最も急で69度,次が,倍加日数が3日の点線の直線(line B)で,傾きが60度,もっとも傾きが緩やかな37度が,倍加日数が7日(line C)である。

 「専門家が最もおそれている「オーバーシュート」」は,実際には,累計感染者数が100人に到達した日からおおよそ14日間の間の累計感染者数が,line Aとline Bの間に現れる状況を指すのである。

 ところが,である。

 日本は,オーバーシュートに巻き込まれることもなく,Day 20以降は,倍加日数が7日を超えてさえいるのである。

 Day 20とはいつのころだったのだろうか?

 今となっては,日本国内での累計感染者数が100人に達したのがいつなのか確かめる術がないが,国内外の発生の状況から10,000人(と1,000人)に達した日を参照点にして判断すると,Day 20は,おおよそ3月14日(累計感染者数780人)と推定される。

 Day 30~Day 40にかけて,やや角度が上昇する形で推移しているが,これがだいたい3月24日(累計感染者数1,193人)~4月3日(累計感染者数2,935人)に当たる。緊急事態宣言が出るかどうかで国内に緊張が走った時期であるが,今から見ると,オーバーシュートとは程遠い状況にある。それどころか,(2)の図は,新型コロナウイルスが,中国由来であるか,欧州由来であるかに左右されることなく,日本は感染症の拡大を効果的にunder controlしていることを示している。

 東京都や日本医師会がmake a fussすることがなく,「専門家 in the true sense of the word “expert”」の専門家が状況をきちんと見定めていれば,日本の取るべき対応は違ったものになっていたのではないか?

 

  1. モデルを提示できない専門家

  徐丞志氏の「楽観的モデル」では,4月16日を感染のピークと予測していたという。

これは,感染の確定日での予測なので,確定日が2週間前の状態を反映しているという前提に立って考えると,感染日のピークは4月2日と予測していたことになる。

 

(4) a.

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    b. 徐氏が算出した「楽観的シナリオ」によれば、日本の感染のピークは4月16日となり、累計の感染者数は2万人以上に達するとされる。

(野嶋剛.「台湾の研究者が日本の新型コロナ感染拡大を試算,5万人感染で「第二の湖北省になる」と警告」Wedge Infinity. 4月19日)

 

  徐氏の予測は正しかったことを裏付ける発表がある。

 

(5) 国内の新型コロナウイルスの感染拡大について、政府の専門家会議は29日、これまでの国の対策への評価を公表した。緊急事態宣言は感染の抑制に貢献したとする一方、感染のピークは4月1日ごろで、宣言前だったことも明らかにした。

(「感染ピーク,緊急事態宣言の前だった 専門家会議が評価」5月29日)

 

 結局のところ,宣言2週間後の時点で,日本が感染拡大においてどのような状況にいるのかモデルを通して,国民に説明責任を果たすことができなかった時点で,政府の専門家会議の「専門性」を物語っている。

 

  1. 8割は「削減」か「遵守」か

  感染経路が追えなくなってくると,クラスター対策に代わって「接触機会の8割削減」とこれの実現に伴う各種の自粛要請が日本各地で実施された。

 

(5)

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(「新型コロナ感染症,接触削減「8割必要」モデルで算出日経サイエンス. 4月25日)

 

 これは,実際には,周囲に一人の感染者がいないのに,あたかも,感染者がいるかのように行動することを強いられるものである。確かに,14日間,すべての市民が自室に閉じこもって一歩もでることがなければ,理論上は,感染は完全に終息するだろう。しかし,人の流れを全体的に止めることが果たして賢明なことだったのだろうか?

 そもそも「接触削減8割」とはどのようなことを指すのか定義が不明である。

 もし,これが,「遵守者の割合が8割」ならどうだったろうか?

 

(6)

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(T. Leslie et al., “What we can learn from the countries winning the coronavirus fightThe ABC First published Mar. 26, 2020)

 

  (5)も(6)も共に「第二波」の概念が欠如しているが,市民に何が必要か分かりやすくメッセージを伝える「工夫」の点では雲泥の差がある。

 人と経済の二つの命を同時に守るという点で,真の意味での専門家の登用が望まれるところである。

9月入学-人が先か制度が先か

 英語学とは関係のない話の続きです。

 

1. プロクルステスの寝台
 文科省は,9月入学について,(1)に見るような2案を例示したという。9月入学に賛成する18知事は,これについてどう考えるのだろうか?

(1) 

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(「9月入学,文科省が2案例示 新小1対象範囲,課題多く朝日新聞DIGITAL 5月19日)

 

 本質的には,9月入学とは,4月2日~9月1日生まれ(イ組)と9月2日~翌年4月1日生まれ(ロ組)が別々の学年に所属することを意味する。つまり,2014.4.2.~2014.9.1生まれのイ組は,4月入学でなければならないのである。このイ組にとって,9月入学とは,小学校の義務教育を受ける権利が5か月間停止されることに他ならない。
 同様の不平等は,2014.9.2~2015.4.1生まれのロ組にも当てはまる。論理的に考えると,このロ組は,2020年4月~2020年8月までの5か月間,(a)幼稚園・保育園に年長として在籍する(つまり,年長クラスに17か月在籍する),(b)小学校にゼロ学年として仮入学する(つまり,小学校の在籍期間が6年5か月に延長される),(c)自宅待機を強いられる,のいずれかになるが,そのすべてに共通するのは,本来,約束されていたはずの小学校の義務教育を受ける権利が5か月間停止されることだからである。
 実は,(1)の2案には,重大な瑕疵がある。実質的な教育が3歳児から始まっているという事実が看過されている。


(2)

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                                                                     (「保育をめぐる現状-厚生労働省」)

 

 平成25年の時点で,3~5歳児の93.4%が幼稚園・保育所に通学している。ここでは,小学校と同様,4月2日~翌年4月1日生まれが「1つの学年」を構成している。
 学年に対するこの認識が存在する限り,2014.9.2~2015.4.1生まれと同じ悲劇が,ロ組を襲い続けるのである。大学・大学院の卒業・修了まで,現行制度に比べて,半年遅れで進級・進学し,イ組とは1年遅れで社会に出るのである。人生の設計そのものが根幹から影響を受けるのである。少なくとも,現在,幼稚園・保育所に通学する年少クラスまでは,こうした不平等が現実のものとなる。
 小中高に現在,在籍する児童・生徒に「9月入学制」を導入すれば大混乱に陥る。同様の理由で,現在,幼稚園・保育所に在籍する幼児に「9月入学制」を導入すれば大混乱は必至なのである。
 9月入学の「いわゆるメリット」と言われているものは,実際には,後期中等教育以降に関係する点も看過されている。
 国際競争力と言うのであれば,現行のロ組も含めて半年間前倒しで教育を推し進めるプログロムでなければ意味がないのである。
 あるいは,平成10年代以降,浸透してきている満3歳児からの就園にならって,満6歳の誕生日を迎える月(か翌月)から小学校に順次入学し,所定の単位の取得をもって順次卒業するというように制度設計すれば,どの月に生まれようと不平等や不利益は生じないことになるだろう。
 9月入学という制度で何をしたいのかよく考えるのが先だ。

 

2. 9月入学の前に(教育のICT化,そしてその前に)「30人学級」の達成
 文科省の2案は,実施すべき順序も違う。
 仮に,全国で30人学級が達成されているとしよう。1案では,新小1が17か月の構成なので,1クラスあたり最大で42.5人(=30×17/12)に増える。しかし,この程度なら,法律上は問題がないという扱いにされるのだろう。

(3) 小学校の同学年の児童で編制する一学級の児童数は,法令に特別の定のある場合を除き,50人以下を標準とする。    (学校教育法施行令 第20条)

 

 「法令に特別の定めのある場合」を,特例として21年度は適用除外とすると,現在35人学級までに収まるのであれば,「50人の目安」を超えないので,仮に9月入学を強行しても,机上の計算では,現在の教室数と教員数でなんとか対応できる。
 本来であれば,新小1の学年を2つ作らなければならないのであるが,人を優先して教育の質を確保しようとすると,「ヒトとモノ」が足りなくなるので,制度を優先したのが(1)の2案であることが見えてくるだろう。
 しかし,(1)の1案は実行が不可能に近い。東京23区では40人学級が大半を占めるからである。

 

(4) 23区の教育長会からは都に対して毎年「35人学級を3年生までに拡大する要望」を提出しています。もちろん,文京区の教育長も参加しています。教育長会が,ただのパフォーマンスとして要望を出しているのでなければ,現状の1,2年生のみならず3年生の35人学級も視野に入れた設計を考えるべきです。しかし,改築等の設計では,まったく考慮されていません。
(「小学校の教室が足りない!?教育日本一を目指す文京区の学校整備は発想の転換を!」文京区議会議員かいづあつこのブログ. 2019年4月19日)

 

 現在,23区では,35人学級体制で(何とか)小1~2の教育に当たっているということは,1案での実施に踏み切った場合,21年度の9月の時点ですでに「50人の目安」を超える小学校が現れる恐れが十分にある。
 というか,40人を超えた時点であまりの教育の不平等に,保護者は黙っていないことだろう。

 回帰が起きている大都市圏では,同様の懸念があるのではないか?
 結局,1案は当て馬で,2案で行こうということになるのだろうか?これなら,東京23区で1クラス37.9人程度で,3年生に進級する頃までには,プレハブ教室で不足する40人教室も完備!という筋書きなのだろうか?

 

 しかし,である。
 いったい何のための9月入学なのだろう?

「9月入学」で議論すべきポイント

「9月入学」で議論すべきポイント

  今日は,英語学とは直接関係しない話になります。

  1. はじめに

 不思議なのは,「先に結論ありき」で,具体的なモデルがまったく提示されていないことです。個人的な立場から,議論すべき問題点を「モデル」を通して考えてみたいと思います。

 また,経済界は,教育の「出口」を大学と捉えているようなので,大学入試と絡めて考えていきます。

 

(1) 経済界はおおむね歓迎する構えだ。… 世界的なIT人材の獲得競争で有利に働くとみられるからだ。海外大学卒の人材を受け入れやすくするため通年入社を導入する企業もあり,「多くが基本的に賛同できるだろう」(経団連幹部)との見方が広がる。

(「9月入学,経済界は歓迎 国際化,通年入社に寄与」時事. 5月1日)

 

  1. 学年進行モデル

 (2)を前提に考察を始めると,可能性として最も高いのは,小学校1年生からの導入です。

 

(2) 政府高官は「正式に導入するとしても来年9月からになる」と話しています。

(「「9月入学」政府が本格検討 来月中に論点まとめへ」ANN. 5月1日)

 

 2021年4月の時点では,現行制度が適用されるので,現在,保育園・幼稚園の年長さん(Cohort A)が新一年生として入学します。同年9月には,新制度の導入で,現在,保育園・幼稚園の年中さんのうち,4月2日生まれから9月1日生まれまでの幼児(Cohort B)もまた新一年生として小学校に入学します。

 Cohort Aは,現行制度と同じような日程で大学受験に臨みますが,不合格だった場合,次の受験は,(a)半年以内 (Cohort Bと同じ),(b)旧制度の特例として,1年後,(c)新制度に合わせて,1年半後,のどれになるのかという問題があります。

 時計の針を再び,小学校1年生の時点に戻すと,1年生の学年が2つできるので,教室と教員の確保が必要になります。全国同時に始めようとすると,教育のICT化の場合と同様,自治体の足並みが揃わず,土壇場になって,実施時期がさらに1年延期になるというようなことがないように議論しておく必要もあります。

 次に,無事,2021年9月入学が実施できたと仮定します。翌年9月には,現在,保育園・幼稚園の年中さんのうち,9月2日生まれから翌年4月1日生まれまでの幼児(Cohort C)(と同年4月2日生まれから9月1日生まれまでの幼児(Cohort D))が新一年生として入学します。とんとん拍子に進級・進学したとして,大学を卒業するのはいつでしょうか? Cohort Bは,現行制度より半年早く大学を卒業します。しかし,年中として一緒に学んだCohort Cは,現行制度より半年遅く大学を卒業することになります。別に浪人したわけでもないのに,気がついてみたら,Cohort Bから1年遅れて社会に出ることになるのです。Cohort Cとその親に,この学年進行が受け入れられるかどうかも論点の1つとなります。

 その一方で,Cohort Cは,小学校へあがるのが現行制度より半年遅くなりますが,その分,読み書きなどの準備教育を充実させることで,小学校の学習にゆとりを持って臨むことができることが期待されます。これに対して,Cohort Bは,親も子も教育機関も,読み書きなどの準備も心の準備も,十分に進まないうちに,小学校へ半年早くあがるので,学習の第一歩から躓く児童の割合が高くなる懸念があります。

 すると,小学校での導入の時期は,早くても現在,保育園・幼稚園の年少さんからという選択肢も出てきます。

 しかし,ここで落ち着いて考えてみると,現行制度では,4月の時点で「7歳~6歳の年齢集団」が小学校の第一学年を構成していますが,これが新制度になると,9月の時点で「6.5歳~5.5歳の年齢集団」で構成することになるのです。

 すると,5歳半から小学校の学習を始めるには,カリキュラムから組み直す必要があることに気がつきます。旧制度の教科書を与えて,ハイこれから授業を始めます,とはいかないのです。学習指導要領の見直し,教科書検定のやり直し等を含めると,この1, 2年で対応できる問題かどうか慎重に議論すべきところです。

 

  1. 学年の切り替え

 「9月入学」制度は,現行制度で,4月2日生まれから9月1日生まれまでの児童・生徒(イ組)と9月2日生まれから翌年4月1日生まれまでの児童・生徒(ロ組)をそれぞれ別の学年に切り替えることを意味します。

 それが,現在,小学校1年生から高校1年生までの間で可能なのでしょうか?

 切り替えれば,イ組は1つ上の学年と合流し,ロ組は,イ組から1年遅れて進級・進学します。イ組の児童・生徒と親は,大学入試に不利になるので反対するでしょうし,ロ組の児童・生徒と親は,生涯獲得賃金の減少と教育費の負担増から反対するでしょう。

 結局,「9月入学」とは名ばかりで,実態としては,現行制度の学年の進行を半年後に遅らせることになる公算が高いでしょう。でも,それが果たして賢明な選択と言えるのでしょうか?

 そもそも根本的な原因は,新型コロナウイルスの感染拡大ではなく,教育のICT化の遅れにあります。4月以降,遠隔授業を受けてきた児童・生徒(と親)にとっては,「仕切り直し」は論外と言えるのかもしれないのです。

 もう一つ心配なのは,日本の国際競争力の低下です。ルイス・キャロルの「赤の女王」は,進化に関する仮説を説明する比喩として使われますが,国際競争に当てはめて考えてみるとどうなるでしょうか?

 

(3) (In Alice in Wonderland, the Red Queen says to Alice)

Now, here, you see, it takes all the running you can do, to keep in the same place. If you want to get somewhere else, you must run at least twice as fast as that!                            

 

 どの国も全速力で走っているのです。他の国より一歩前に出て,経済界が期待するような人材を育てるためには,今の倍以上のスピードに教育を加速しなければならないのです。新型コロナウイルスの感染拡大を言い訳に,現在の1年生までの学年の進行を半年遅らせてしまっては,大学を卒業する頃には,「海外大学卒の人材」には太刀打ちできなくなっているのです。

 Bygones are bygones.なのだから,crying over spilt milkしている暇はない,という考え方もできるのです。

 

  1. 4月入学8月卒業

 現実問題としては,早期に実現可能なのは,「4月入学8月卒業」です。ただし,その前提として,2021年8月末までに,全国の小中高でICTを利用した授業展開ができるインフラの整備が完了していることが条件となります。

 まず,高校の改革です。文科省が卒業に必要な単位として指定している74単位を全国の高校の卒業単位とすることです。そして,セメスター制度を導入し,半期ごとに単位を認定するのです。こうすれば,高2の8月に卒業することが可能になります。9月から海外の大学に進学したり,社会に出て活躍する選択肢が生まれます。

 あるいは,義務教育の年限を高校まで伸ばして,中高一貫にすれば,カリキュラムの運用に弾力性が生まれるので,教科の学習は高2までに終了して,高3の半年間は,(a)IT科目の学習など就職の準備,または,(b)国内外の大学進学への準備,に当てることができます(この場合,「xx中高一貫校yy校」のように,キャンパスが分散する結果,生徒が一堂に会するのは,体育祭や音楽祭などの特定の行事の時だけというようなことが起こる可能性があります)。

 高校の段階に手をつけないで,大学を改革するということも考えられます。卒業に必要な124単位は,3年生までに取得することが可能です(いわゆる仮面浪人をして,2年生から「復学」しても,残りの努力次第では,「同級生」と一緒に卒業することができます)。

  第7セメスター(現行制度における大学3年生の前期)で,希望者は大学教育を修了することができるシステムを取り入れれば,9月から晴れて社会人になることもできます。

 小学校の課程は,すべての基礎に当たるので,しっかりと時間と手をかけて児童を育て,いわゆる「ゴールデンエイジ」の時期を過ぎてから,教育を加速するというアプローチも考えられるのです(ゴールデンエイジというと,発達領域としては身体的能力を指して使うのが一般的ですが,ここでは,芸術的才能や学術的才能も含めて考えることにします)。

 幼児教育に力を入れて全体の進行を早めるのか,それとも,後期中等教育以降の効率を高めるのか,アイデアとしては2つ考えられます。教育を受ける当の本人の意思ややる気,本人自身による人生設計の余地も考慮して,柔軟性のある教育制度を構築しなければならないのです。決して,どこかがやっていて,それが「標準」だから真似すればよい,という安易な問題ではないのです。

 

  1. 現高3生と既卒生の将来

  「9月入学」の話題の中で,どうも忘れ去られてしまったような印象を受けるのが,現高3・既卒生の救済対策です。

 

(4) 文部科学省は5月1日、小学1年生、小学6年生、中学3年生を優先して登校させる案などを盛り込んだガイドラインを全国の教育委員会などに通知しました。

(「文科省 “小1 小6 中3の登校優先案” ガイドラインを通知NHK. 5月1日)

 

 確かに,義務教育は国民のすべてに関わることなので,保育園・幼稚園,高大に優先して方向性を告知する必要があったのかもしれません。

 しかし,(4)が暗示しているのは,現小学6年生と中学3年生については「仕切り直し」をしないということです。確かに,受験学年の仕切り直しをしては,卒業自体が最大で1年半遅れることになるので,社会的影響は大きくなります。また,小学1年生に言及していることは,来春,現保育園・幼稚園の年長さんを受け入れる「スペース」を確保する意思の表れと解釈することもできます。

 すると,「9月入学」の議論とは独立して,現在の状況については,仕切り直し無しで解決するというのが文科省の基本的姿勢であると読み解くことができます。

 以上を基に推測すると,2021年1月の共通テストは,現行の日程に従って予定通り実施する方針であると考えられます。(「共通テスト」を基軸に,いわゆるAO・推薦入学を含めて,私立大学・国公立大学の入試スケジュールが確定するので,共通テストで考えています)。 

 遠隔授業で大学入試の準備を進めてきた高3生・既卒生の「権利」に視点を置くと,現行通り実施可能な社会的状況であれば,現行通りとするのが公正な選択肢であると言えるでしょう。

 問題は,教育のICT化の遅れの影響で準備が遅れている高3生への対応です。「9月入学」の論点整理が先行する中,自分たちの扱いがどうなるのか不安が大きいことと思います。あるいは,ことによると,現高3・既卒生の一部を9月入学で受け入れ可能なのかどうか大学側に打診しているのかもしれません。

 大学側には定員の厳格化という縛りと学生の質の確保という願いがあるでしょうから,来春の定員を充足した上で,特例措置として,一定数の9月入学を認めるというような案が考えられます。

 来年は延期された2020年東京オリンピックがあるので,7月上旬までに入学手続きを終えているためには,(追試験用の)共通テストを4月中に実施する必要があるでしょう。

 いずれにしても,スケジュールがタイトである上に,大学入試そのものが大変な労力を必要とします。

 教育のICT化の遅れによる影響は自治体によって程度が様々なので,一律の対応は難しいでしょうから,すべてのしわ寄せが高3生に及ぶ可能性は決して低くはないでしょう。所属の高校で対応が難しいとすれば,教育を受ける権利を十分に保障できる体制を準備してこなかった自治体の予算で,塾・予備校や,通信添削などの教育事業者の教育支援を受けることで可能な限り学力を担保するというようなことも考えられるかもしれません。*

 休校措置の延期だけを先行し,教育のvisionを提示してこなかった自治体の責任は決して軽いとは言えないでしょう。

 

*児童・生徒一人一人に支給される10万円を使うことで,ICT化が遅れている自治体でも,オンライン授業が受けられる環境を先行整備することが考えられます(ただし,後で,自治体からその分を返還してもらうという前提条件で。スマホとデザリングで10.1インチのタブレットで学ぶか,光通信の環境でパソコンを使って学ぶかは本人の選択に任せればよいでしょう。端末を国産にこだわらなければ,予算の中で解決するのは難しくないでしょうが,ここは,国産メーカーの支援という意義も込めて,10万円の枠で6月末までに必要な児童・生徒の手に届くというようなアイデアは実現できないものでしょうか?)。

動画コンテンツ(と学力評価問題)は,全国から選りすぐりのスーパー先生の協力で単元単位で作成すれば,現場の先生による対面授業に匹敵する効果は保証され,なおかつ,現場の先生は,オンライン試験の結果も見ながら,生徒の質問に答えたり,学習のアドバイスをするなど細やかな指導に専念できるでしょう。それが難しければ,教育コンテンツ自体を購入して,配信してもよいかもしれません。教育こそが財産であると考えれば,ここは思い切ってというか,思い切った改革を行うだけの気概があるのであれば,目前の課題にも思い切った判断で「教育の空白」を少しでも埋める努力を望みたいと思います。